見ていながら酷く不愉快になった。最近これほど不愉快になった映画は珍しい。ゲイ映画はたくさん作られており、大概のものは楽しく見ることができる。
しかし、ジェームズ・アイヴォリーが脚色を手がけ、彼は「最終目的地」を撮っているから、
ホモ映画だと言うことは分かりそうなものだったのに、間違えて見に行ってしまった。そして、やっぱり不愉快になった。
ホモ映画という以外に、何の取り柄のない映画だった。
1983年の話。イタリア人男性がアメリカの大学で教授を務めている。彼はイタリアの北部に別荘をもっており、夏には妻と17歳の息子エリオをつれて、避暑にやってくる。そこへ24歳のアメリカ人オリヴァーが居候にやってくる。彼は父親の教え子で、インターンをするという設定である。
24歳のアメリカ人が、17歳のイタリア人にちょっかいを出し、
手込めにされていく過程を描いた映画である。24歳と17歳という設定が、
成人男性と未成年男性という典型的なホモ関係である。この年齢は、24歳の成人男性は成熟した大人で、
24歳に対して17歳はまだ子供である。未成年同士の関係は許容されるかも知れないが、
成人と未成年の関係を現代社会は許さない。
17歳のエリオのほうから憧れるように描いている。あきらかにオリヴァーが伏線を敷いて、
子供を乗せてしまっている。年齢の上下するホモ関係は、かつては高齢者が次世代へと文化を伝えるものとして、
我が国の男色をはじめ世界中にあった。年齢秩序が文化を支えており、文字の役割が低かった時代には、
肉体を介して文化が伝えられたから、ホモも教育として役に立っていた。
しかし、近代に入るとき、活字印刷が発明され年齢秩序が崩壊を始めた。
長い歴史を持つ年齢秩序は、それに代わる文化の継承方式とかんたんには代替できなかった。義務教育という学校教育の普及に伴って、文字を使った教育が普及するにつれ、年齢秩序がくずれて、個人が横並びになった。そのため、ホモが嫌われはじめ、ゲイとなって生まれ変わった。
詳しくは「ゲイの誕生」を参照して欲しいが、この過程には長い長い時間がかかった。
ゲイは年齢や社会的な地位が、ほぼ同じ者同士の性関係である。今では17歳の男性を性的な相手にするホモは、児童福祉法違反であり犯罪である。この監督はこの映画がゲイ映画ではないことを知っている。禁止されつつあるホモを、禁止されていることを知られないように、少年の方からアプローチさせており。
また、イタリアの街並や風景を、美しい画面で描写して、非難を免れようとしている。
オリヴァーは運動にも秀で、音楽も理解し学業にも優秀でイケメンとして描かれている。
立派で優秀な成人である。それに対してエリオは才能の萌芽こそ見せるが、まだ未熟である。
エリオはカッコイイ年長者に逆上せ上がって、オリヴァーの言うがままである。優れた成人男性が美しい後輩男性を愛しながら、男性の価値体系を後輩の身体に精液をもって染みこませていく。
これこそ年長者が身体をもって、ホモの教え導く教育であった。
ホモは男性だけが文化の担い手であった時代に、
学校教育に代わるものとしては意味があった。しかし、成人男性が若い男性を相手に、身体を使って教育することは、
現代では許されていない。今では未成年者虐待といわれても仕方ないだろう。文化の継続には、人格の接触が不可欠ではある。ホモの世界も精神的に充実しているだろうが、
この映画のような設定には疑問だらけである。
同じように高校生のゲイを扱った映画に「同級生」があったが、あの映画は真摯な姿勢が感じられて、ゲイを心から応援したくなった。しかし、この映画では、エリオはマルシアという少女とセックスをしている。マルシアが自分を愛していることを知りながら、エリオはオリヴァーに身を任せていく。しかも、マルシアには詩集を渡して、あたかも自分も愛しているように振る舞う。マルシアには冷たい視線で、
捨てることに全く悩んでいない。
ホモはゲイと違って女性に対して冷たい。この映画は男性たちには、広く高い教養をあたえているが、少女たちには本を読むことさえさせていない。マルシアはエリオから借りた本が、活字に触れる初めての体験であるかのように描いている。マリオの母親がドイツ語の本を訳して聞かせていたが、
どこかわざとらしく不自然な展開である。
大勢の女性たち、しかも若い女性たちが、この映画を見に来ていたが、こんなに蔑視されて不愉快にならなかったのだろうか。こんな女性蔑視の映画もないだろう。もし、この映画の女性蔑視に気がつかなければ、
我が国での女性解放はほど遠いと思わざるを得ない。
原題は「 Call Me by Your Name」 2017年イタリア=フランス=ブラジル=アメリカ映画
(2018.5.2)