タクミシネマ        ファイト・クラブ

☆☆ファイト クラブ デヴィッド・フィンチャー監督

 肉体労働から頭脳労働へと、社会の主流は動いている。
そのため日々の生活からは、肉体的な手応えはどんどんと薄れ、身体への実感が乏しい毎日になりつつある。
そうした中で頭脳労働という仕事をする人間たちは、金銭的には充分に満たされても、一種の飢餓感に陥っている。
この映画はそうした現代の精神状況を背景として、何とかして手応えを欲しがる人間の、複雑な願望を描いたものである。

 この物語のナレーターをつとめる主人公のジャック(エドワード・ノートン)は、不眠症に陥った保険会社の査定員である。
不眠症の苦痛を何とかしてくれと医者に行ったら、もっと過酷な状況の人がいる。
それは不治の病に冒された人たちで、そのセラピーに行けば本当の苦痛がどんなものか判ると言われて、さまざまな会に顔をだす。
余命幾ばくもない人や、睾丸がガンになって切り取られた男性などが、自分たちの苦しみをぶちまけて、仲間同士で支え合っていた。
ジャックはそれらのセラピーで、病人たちと同じように泣くことによって、不眠症から脱していた。
それらの会に冷やかしで顔を出していた人間が、もう一人いた。
それはマーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)という女性だった。

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劇場パンフレットから

 ジャックの生活は、アメリカ全土を飛び回る日々だったが、その時に会う人といったら、すべて一回限りの人であり、その後には何の友人関係も発生しない。
毎日が、殺伐とした人間関係だった。
ある時、飛行機のなかでタイラー・ダーデン(ブラット・ピット)と隣りあって座る。
これも一回限りの付き合いと思っていたが、実に興味深い人物であった。
アパートに戻ってみると、自分の部屋はガス爆発で木っ端みじんになっており、今夜寝るところがなかった。
貰った名刺を頼りに、タイラーに電話し、話をするうちに、彼の部屋に泊まることになる。
ところが、タイラーはジャックに自分を殴れと言う。
彼は怪訝に思ったが、殴ってみると殴り返され、また殴る。
それが意外に爽快だった。

 爆破で全財産を失ったジャックは、そのままタイラーの家に転がり込む。
二人は殴り合うゲームに生の手応えを感じ、殴られる痛さや流れる血に感動を覚える。
今までの生活では決して手に入らなくなったもの、それが殴り合うことによって、痛さとして実感できる。
男性のジャックにとって、それはたまらない魅力だった。
殴り合いは、やがて「ファイト クラブ」となって、多くの男性たちを魅了し、会員を増やしていく。
タイラーの男性的な行動力にひかれて、ジャックも逞しくなっていく。
そして、スペースモンキーと呼ばれる同好の男性たちが、彼等の家に集まり始める。
黒い服を着て、軍隊のような生活をする彼等は、社会の底辺で生活をする肉体労働者であった。
彼等は、虚構と化した現代社会を粉砕すべく、タイラーの指示に従って動き始めるのだった。

 現代社会で、過剰なまでに個人的な手応えを求めていけば、反社会的になるのはオウムを見るまでもない。
タイラーの指示を受けたスペースモンキーたちによって、M計画というテロを始める。
手応えを奪っている現代社会の象徴は、金融を司る会社である。
それ等の会社が入っているビルを粉砕すべく、大規模な爆破作戦を実行しようと、スペースモンキーたちが動き出す。
しかし、そこでジャックはことの重大性に気づき、彼等を止めようとするが、実はタイラーは管理社会に生きるジャックの反面であり、手応えを求めている生の人間ジャックそのものだった。
つまり、ここでタイラーとジャックは、同一人物の二面だということが種明かしされる。
バーチャルな社会における、生きる手応えとは何か。
それがこの映画の主題なのだが、それが二重人格という実に複雑な展開をもって描かれる。

 屈強な肉体の支配する世界では、女性の登場する場面は少ない。
この映画に登場するたった一人の女性マーラ。
彼女はジャックの二重人格の受け手として描かれ、ジャックとタイラーの両極端の対応に戸惑い、ジャックへの距離の取り方が判らなくなっていく。
肉体と観念が支配する現実との相克に悩むのは、現代社会では父を殺してしまった男性だけだ。
いまだ母を殺していない女性には、肉体のまま生きることが可能なのだ。
だから女性は、出産が象徴する自然な女性性、言いかえると母性なるものに寄りかかることができる。
「男が文化で、女は自然か?」といわれる所以である。
観念の世界でもがくのは、男性の専売特許であり、女性はもがく男性の行動に戸惑うことになる。
この映画にたいする、女性の感想がぜひ聞きたいものである。

 実がうつろになり虚が実生活になってしまった。
紙のうえに書かれた数字がすべてである日々。
そこには生きるために仕組まれた肉体のメカニズムが介入する余地はない。
むしろ、じっと椅子に座って体を動かさず、ただモニターを見つめる目玉と、キーボード叩く指だけが働いているにすぎない。
頑強な肉体などまったく不要で、使われぬ身体は鈍るばかりである。
生物の進化の過程で仕組まれた肉体は、今や不要にさえなり始めている。
男性たちは自分の肉体を持て余している。
ガンに冒されて睾丸を切除された男性は、豊満な乳房が出てきた。
睾丸こそ男性の象徴だから、この映画で睾丸のガン患者が登場するのはまったく自然である。

 屈強な肉体を持って生まれた男性たちは、情報社会を前にして肉体の不要化に戸惑い、なんとか肉体の手応えを復活しようとしている。
男性たちの常識的な感覚は、もちろん数字に支えられた今の社会を認めている。
しかし、肉体という原始からの仕組みが、今の社会に欲求不満を示すのだ。
だから、本人が無意識のうちに人格が分裂し、意識下の意識として肉体的な接触、つまり痛いという刺激を求めざるを得ない。
普通は感じたくない痛さこそ、肉体的な手応えの象徴である。
肉体的な手応えが、男性たちに生きがいを感じさせ、自らの存在証明を与えるのである。

 この映画は、きわめて男性的な視点から作られており、情報社会での肉体の存在意義を鋭く問うている。
観念と現実の分離が、肉体に及ぼす次元でこの映画は考えており、やはり今日的な問題意識である。
しかし、この映画で描かれるセックスには、ちょっと疑問が残る。
タイラーがマーラと激しいセックスを延々とくりひろげるが、肉体が行うセックスも実は観念が支えているのではないか。
マッチョな男性のセックスが、インテリのセックスより激しいとは、黒人はセックスが強いという偏見と同様に、単なる思いこみではないか。
ここに観念と肉体の隘路を、切り開く道が見えるように思う。
この映画の結論とは反対だが、肉体を支えるのも観念であり、だから情報社会化せざるを得ないのであろう。

 映画の前半がのろく、とくに不眠症からセラピーに出かけるところは、あれほど丁寧に見せる必要はない。
簡単に流しても充分に通じるからもっと詰めても良いだろう。
サブミナル効果も、それほど効いているとは思えない。
そして、飛行機のなかでタイラーと出会ったときが、すでに二重人格になっているのだが、ここから「ファイト クラブ」への繋がりがぎこちなく、とくに二重人格であることの説明が分かり難い。
なぜジャックは自分のアパートを爆破したのか、この映画の展開ではその説明ができない。

 監督にしても、現状をこう見るといっているだけで、簡単に結論を出せる問題ではないから、こうした結末にならざるを得ないだろう。
しかし、ちょっと気になったのは、この監督の本心は保守的ではないかという点である。
つまり、問題意識や現実を観察する眼は鋭くとも、肉体労働社会を懐古し情報社会化を否定的に見ている感じがしたのである。
彼の姿勢は今後、彼がとる映画でわかるだろう。
しかし、優れた映画であることは歴然で、この映画に星二つをつける。
丁寧な導入から始まる複雑な展開といい、今日的な問題意識といい、やはりアメリカ以外では、作ることのできない映画である。
撮影監督が「セヴン」の時の二番だったとか、画面の雰囲気が似ていた。
黒がつぶれておらず、画面構成もしっかりしていた。

1999年のアメリカ映画。  


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