タクミシネマ          ゴースト ワールド

☆☆ ゴースト ワールド 
  テリー・ズウィコフ監督

 高校は卒業したが、他にいくところもない。
そんな女の子の日常を描いた映画だが、虚実の境が曖昧になった現代の孤独がよく表れている。
この映画の主人公が男性ではなく、女性でなければならない理由が、現代社会の孤独である。

 イーニド(ソーラ・バーチ)は、今日高校を卒業した。
縛りの多かった学生生活とも、嬉しいことに今日でお別れ。
これからは親友のレベッカ(スカーレット・ヨハンスン)と、ハウス・シェアーして住むつもりである。
レベッカは仕事も捜したし、アパートも見つけた。
彼女は、着々と地歩を固めつつある。


 しかし、彼女は何かのれない。
現実がよく見えてしまい、自分をぶつけることができない。
卒業の単位が足りなくて、美術の補講クラスにでると、彼女の作品が認められる。
奨学金までつくが、彼女は大学へ進学する気にもなれない。
彼女は行動的に見えるが、心理的には引きこもり寸前である。
引いてしまった彼女は、変なオヤジのシーモア(スティーヴ・ブシュミ)に興味を持つ。
彼も孤独な現代人で、古いレコードやオールディズ物を集めている。オタクである。

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劇場パンフレットから
 彼女には決して才能がないわけではない。
美術の奨学金がでるくらいだから、表現には見るべき才能がある。
彼女の漫画日記は面白い。
しかし、彼女程度の才能は、いまや誰にでもある。
自分の才能にのめり込むことができない。
自分を信じることができない。
今や大げさな問題意識をもてる時代ではない。
美術の先生ロベルタ(イリーナ・ダグラス)は、問題意識を高くもてと古いことをいうが、それがこの映画の監督から皮肉られている。

 情報社会化は、誰にでも平等にチャンスを与えるが、誰にでも平等に孤独を与える。
個人が裸にされ、個人の能力だけで、生きていかなければならない。
それは高校を卒業したばかりの子供であろうと同じである。
アメリカの現代社会は、子供に厳しい。
まず、両親が離婚する。
女性の自立を求めての離婚だから、離婚に反対するわけにもいかない。
女性の自立は祝福されるべきである。
離婚はやむを得ない。
とすれば、子供は単親家庭で育つことになる。

 単親でも充分に子供を愛しているから、親は不自由のない生活を子供に与える。
単親をやっている親は、子供を一人前の人格とみなして、自分と対等に扱う。
親自身の再婚も、子供に相談する。
自分の親になる人物の決定に、自分も参加するのだから、相談された子供はとまどう。
親とは子供より先に存在したはずである。
しかし、一人前の人間は、冷静に判断しなければならない。
ここでは子供を抑圧するものは何もない。


 イーニドと一緒に、高校を卒業したうちの優秀な部分は、大学に進む。
そして4年、もしくはそれ以上のモラトリアム期間を体験して、社会にでていく。
その時になっても、まだ本当の自我など確立していないだろう。
しかし、アメリカの大学は、社会と密接につながっているから、大学でのモラトリアムは役に立つ。
大学に進む動機づけを得られなかった彼女は、白いモラトリアムのまっただ中におかれてしまう。
それでありながら、立場は一人前である。
いまや彼女は何をしても良いのだが、何をして良いのかわからない。

 この映画では、イーニドがスクリーンにでてくるたびに、衣装が違う。
安物といえども、センスがいい。
しかも、彼女は年齢が若いのに、想い出のものをたくさんもっている。
年齢のいったシーモアは、新しい物に適応できず、古い物にこだわる。
古いものが、彼の存在証明になっている。
しかし、イーニドは古い物にも新しい物にも、同じようにつきあえる。
時代に生きるセンスが、彼女をいまに生きさせる。


 彼女は豊かである。
お金はないけれど、働かなくても食べることには困らない。
親と一緒なら、住むところもある。
自立を求めて家をでたいが、親は彼女を拘束するというわけでもない。
だから親の家にいても痛痒を感じない。
ここでも反抗の対象がない。
しかし、親が再婚したいと言いだしたので、一人前の彼女には、それを否定することはできない。
親にも親の選択権があり、彼の人生があるのだ。
子供といえども、親の幸せを邪魔するわけにはいかない。
それも彼女はわかっている。
だから泣き叫ぶこともできない。

 大学にいく連中だって、孤独であることは変わらない。
とにかく現代社会は、個人が単位となってしまったので、個人の内面へ入り込むような人間関係はできにくい。
差別と保護は、一つことの裏表である。
共同体に生きた時代には、共同体の掟が人間を拘束したが、同時に人間の精神をも支えた。
共同体からの抑圧ですら、人格形成に役立った。
子供は家庭で親の支配下におかれた。
収入がないということ以外に、子供であるという理由で親は子供を支配した。
親の支配が子供の人格をつくった。
しかし、現代社会は違う。

 工業社会の家庭は、男性支配が貫徹していた。
女性は男性に支配されていた。
だから女性は差別されていた。
と同時に保護もされていた。
そして、高齢者が優位にあるという、年齢秩序も貫徹していた。
子供より親のほうが優位した。
母親も子供を支配下においた。
支配の構造が厳然としているところでは、被支配者は支配者に挑戦できる。

 女性の自立は、情報社会がうながした。
と同時に、核家族は崩壊した。
男性支配も、年齢支配も崩壊した。
もはやいかなる差別もない。
差別がないことは、保護もないことである。
つまり精神を形成する外的な要因が、極端に少なくなってしまった。
差別のない社会は厳しい。
差別のない社会に適合できた人間には、極楽かもしれないが、適応できない人間には救いはまったくない。
個人の人生は、個人の責任の上にある。
大人も子供も、男性か女性かも、まったく関係ない。
裸の個人がいるだけである。

 一人前であることとは、社会的な役割を平等に引き受けることである。
社会にでるとき、高校卒業といった年齢であろうと、社会人であろうと同じ立場になる。
情報社会化した今、かつてのように大家族が癒してくれたり、地域共同体が守ってくれることはない。
情報社会の能力とは知力だから、年齢が低いから見習いということもない。
若い起業家はたくさんいる。
むしろ高齢者のほうが、社会的な適応ができない。
いまや若くても、財をなすことは可能である。
この映画でも、来ないバスを待つ老人が、社会的な非適合者として何度もでてくる。

 工業社会まで、支配の構造が厳然としてあった。
それは男性だったり、大人だったりと、打倒すべき支配者が見えた。
しかし、もはや打倒すべき対象はみえない。
自分にたいして他者が登場して、はじめて自己がわかる。
そこで自己の形成が始まる。
いまや対立の壁がない。
親も男性も抑圧してこない。
だから、子供は何を手がかりに、人格を形成すればいいのか、かいもく見当がつかない。
そのうえ、虚実に手応えの違いがない。
適応できない子供は、老人と同じように、社会からだまってドロップ・アウトしていく。

 この映画は、インディペンデント系の低予算ものだが、実に丁寧につくられている。
まず、イーニドを演じたソーラ・バーチが、役作りのために太っていた。
彼女の体形は、いかにもこの年齢の高校生である。
そして、メイキャップや衣装の係りが、徹底的に手を入れている。
だから、イーニドのキャラクターが、ゆれうごく多重人格に見える。
というか、さまざまな服装が豊かな社会を象徴すると同時に、揺れ動いてしまう自己を充分に表現している。
彼女の服装は、心理表現として出色である。

 また音楽も、場面にあったものを、よく選んでいる。
原作が充実しているのだろう。
小物にもよく目が行き届いており、それぞれがきちんと意味を持っている。
とくに戦後から1980年代くらいまでの風俗に、きちんとした目をもって発掘している。
改めて発掘する意識などなくても、監督の生きている世界そのものであろうが、映画という画面に再現するためには意識化された作業が必要である。

 反抗する対象の消失は、自己への信頼しか寄る辺がなくなってしまった。
だから、ダサいけれども、それが良ければ気持ち良いのであり、気持ちよければすべて良いのである。
しかし、自分の感覚だけに頼ることは、自分が神様になることであり、それは孤独になることと同義である。
不確かな自分の心に、信をおかざるを得ない不安を、誰でも克服せねばならない。
繊細な心は揺れうごく。

 20世紀の後半、フェミニズムが台頭した。
フェミニズムがもたらしたものは、とても大きかった。
しかし、女性であることにこだわるフェミニズムは、もはや何も生むことはない。
年齢秩序の消失から、今後は子供たちが、どれだけ豊かな想像力をみせてくれるか。
そこにしか可能性がないだろう。
現実を冷静に観察し、きわめて論理的につくられたこの映画に、星二つを献上する。

2001年アメリカ映画

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