タクミシネマ        マトリックス

  ☆☆マトリックス    アンディ&ラリー・ウォシャウスキー監督  

 前評判の高い映画だったが、その通りにとても面白い映画だった。
聖書や理論数学を下敷きにして、その上ギリシャ神話や不思議の国のアリスを引用して、実に複雑な世界を創っていた。
主人公のネオ(キアヌ・リーブス)に救世主というのからして聖書なのだが、終盤へと物語が進むにつれて、予言者ヨハネ、裏切者ユダ、キリストの奇跡と死そして復活と、まったく聖書をなぞっていく。
これは科学が先端的になってきた現代に、宗教への郷愁を孕んだ社会の反映だろう。
そして、近未来の物語が聖書を引用するのは、時代が精神性を要求しているからだろう。

 ネオというコンピューターオタクの青年が、パルチザン・グループのリーダーであるモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)から「我々の仲間にならないか。君は救世主だ」と接触を受ける。
彼は半信半疑でその仲間と付き合うが、そこで知らされたのは現在の社会がコンピューターに操られた仮想社会であり、真実の社会はパルチザンの彼等が生きている世界である。

 1999年と思っているが、実際は2199年で、人間はコンピューターの熱源になるために栽培されているのだという。
現実が仮想空間だという設定は、「トゥルーマン・ショー」を思い出させるが、ヒューマンなタッチの「トゥルーマン・ショー」とは異なり、この映画は無機質でばりばりのSFXである。

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保存に困るし、このパンフレットはとても読みにくい。

 真実を知らされた彼は、人間の尊厳を取り戻すべく、コンピューター支配の社会と戦い始める。
コンピューター支配のエージェントは3人おり、彼等は人間より賢くはるかに早く運動できる。
そのため、通常の人間たちはまったく歯が立たない。
そうした中で、ノアの箱船のような小さな宇宙船に乗った人間たちが、隠れるようにしながら闘っているのである。
その宇宙船は「ネブカドネザル」と名付けられ、バビロニアの王に由来した名前である。

 宇宙船のなかに肉体をおき、戦いに行く場所は仮想空間である。
その間は電話線で結ばれており、イメージだけが行き来するのだが、仮想空間で殺されてしまうと、実際の肉体も死んでしまうのである。
ここでは肉体と精神の一致が前提になっており、仮想空間に生きる人間たちが喜怒哀楽をもっている設定からすると、ちょっと変である。
というのは、精神と肉体が分離できるから、電話線を伝わって移動できるはずで、ここでは精神とに肉体は分離できている。
にもかかわらず、イメージが殺されると肉体も死ぬというのは矛盾しているようだ。

 サイファー(ジョー・パントリアーノ)という仲間の一人が裏切るのだが、彼に肉を食べてもその味覚は脳が感じるのだと言わせている。
感覚は肉体が感じるのではなく、脳が反応しているのだというのが、この映画を支える鍵なのだ。
それは情報が情報で一人立ちする世界でもあり、ヘリコプターの操縦技術を脳へインプットするシーンにも現れている。
この映画には精神というか情報が、肉体から離れることは可能だという前提がある。

 実際に手や足が切断されても、あたかもその手や足があるかのように痛いと感じる。
それは脳の中が、かつてあった手や足を覚えており、その部分が痛さを感じるから、すでに失ってしまった手や足にも痛さを感じるという。
そうした事実があるから、脳を走る刺激と言うか情報と脳自体を含めた肉体の切断が可能になるのだ。
しかし、それでは仮想社会の人間が実感をもって生活している以上、それが現実ではないとは言えないだろう。
こうした設定では必ずどこかに破綻が出るものだが、この映画でも全面的に整合性があるわけではない。
そうしたこじつけを差し引いても充分に納得できる。

 この映画の凄いところは、CGIやSFXを多用して仮想空間の話にしていながら、その背景には精神的な物語がたっぷりと隠されていることである。
ヒロインの名前が三身一体のトリニティ(キャリー=アン・モス)だったりだけではなく、まずネオという設定が新たな社会の救世主であり、コンピューターという原罪で汚染された人間を救うのが、またコンピューターオタクの人間である。

 キリスト教がユダヤ教から生まれながら、ユダヤ人とは一線を画していることによく似ているし、単なる過去への回帰とも違うスタンスである。
そうでありながら、キリストのように救世主が人間を救うのではない。
ネオに救世主の役をやらせながら、現世を救いきれない終末は、むしろユダヤ教的な世界ですらある。

 映画の中で演じられるカンフーは、香港の演出家ユアン・ウー・ピンが演技指導に4ヶ月もかけただけあって、なかなか見応えがある。
ネオとモーフィアスがカンフーを演じる場所は日本の道場のような雰囲気だが、香港と日本の混交には違和感がなかった。
演技の下手なキアヌ・リーブスには、喜怒哀楽を微妙に表現せずに済むこうした映画がうってつけである。
また、ヒロインを演じたキャリー=アン・モスが、無機質な映画の雰囲気と合ってとても格好良かった。
そして、エージェント・スミスを演じたヒューゴ・ウーィービングの演技が上手かった。

 ラリーとアンディー・ウォシャウスキー兄弟は、「バウンド」を1本撮っただけのほとんど新人である。
これほど金のかかった映画を、それほど実績のない若い監督に、ハリウッドは良く撮らせるものである。
若い監督でも、上手い売り込みと才能があれば、投資するアメリカの体質がこうした映画を作らせるのだろう。
それにしても、アメリカの監督たちはよく勉強している。
それは画面の端々から充分に感じる。
彼等の愛読書に、ゲーデルが入っているというのも理解できる。
SFXを大々的に使ったものは、あまり好みではないが、この映画には星2つを献上する。
今年のベスト5候補である。

1999年のアメリカ映画。


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