タクミシネマ          リービング・ラスベガス

 ☆☆ リーヴィング ラスヴェガス
 マイク・フィッギス監督

 映画は最後のところで娯楽だから、誰でも楽しくなる話を期待して、映画館に足を運ぶ。
けれども、映画もまた社会の反映だとすれば、楽しい話ばかりが映画ではない。

 農耕社会では、本人の意志や努力ではどうにもならない身分によって差別され、身分と本人の意志との狭間で人は呻吟した。
しかし今や、本人の努力次第でどんなふうにでもなれる。
何にでもなれるが、それには非常な努力と幸運が手を結ばないと、思うような夢は実現できない。

リービング・ラスベガス [DVD]
劇場パンフレットから

 身分で差別されていた時代には、身分が人を守った。
だから、個人的な努力には限界があって、人はその中でゆっくりと生きた。
今後の情報社会ではそうではない。
常に競争にさらされるから、必死で走り続けないと、何時でも落後しかねない。

 ベン(ニコラス・ケージ)は、優秀なシナリオライターだったがアル中である。
奥さんにも逃げられ、会社も首になる。
なぜアル中になるかの説明は、映画の中ではなされてないが、それを説明しないところが今日的である。

 アル中の原因が、個人的な性格によるのではなく、社会的なストレスであることは、もはや誰でも知っている。
誰でも、アル中になる、もしくは麻薬中毒になるすれすれのところを、健康な市民の側にかろうじて留まっている。
ちょっとでも切れたら向こう側、観客はそれに共感できる。
だからアル中であることを、説明しなくてもいいのである。

 思いのほか多額の退職金をもらった彼は、アル中を究めて死ぬためにラスベガスにやってくる。
そこで買った売春婦のセラ(エリザベス・シュー)と心が通じる。
会社の仲間がいるわけでもなく、家族がいるわけでもない彼女は、孤独であり気持ちを通わせる人間が欲しい。

 売春婦である彼女には、誰も精神的な手をさしのべてはくれない。
セラには精神分裂症のヒモがいるが、そのヒモからもう会わないと言われる。
死ぬために酒を飲む覚悟のベン、短い時間を好きに生きようとする彼に、セラは孤独を癒してくれるものを感じる。
男にとって女が必要なのではなく、女にとって男が必要なのである。

 売春婦とアル中というマイナス者が、その立場をそのまま認めることが、彼らの精神を安定させる。
競争にさらされた、努力を強制された日常が、彼らにはストレスである。
ベンは酒を止めろというなという条件で同棲をはじめる。
それを承諾したセラは、それでも彼が心配になって、一度だけだが医者にいけという。
それによって、互いの立場を認めるという相愛の関係が切れる。

 ベンが売春婦を家に連れてきたので、ついセラは出ていけといってしまう。
セックスなど彼らの関係にはどうでもいいのだが、ほかの女性とのベットシーンを見ると、精神的な関係が動揺してしまう。
性的な関係が彼らを繋いでいたのではなく、互いの立場をそのまま認めるという精神的な愛情関係だったことに気づいたセラは、ベンを捜して歩き回る。
ベンがセラの家に電話をかけてくるが、すでにその時にはほとんど死ぬ直前である。

 死の床にいるベンは、それでも酒を離さない。
セラに触ってもらって、ベンはやっと勃起する。
横たわっているベンの上にまたがって、セラは初めてベンを迎え入れる。
初めてのセックスが最後のセックスとなり、射精のショックでベンはそのまま死んでしまう。
彼女が射精させなければ、ベンはまだ生きていただろうが、ここでは死は大した意味を持たない。
あえて性器を結合させるのは、精神的な関係が精神だけで成り立たないことの象徴か。

 もう来ないでくれといわれるシーンが、何度もでてくる。
友人、ヒモ、バー、カジノ、リゾートホテル、アパートの大家などから、再会や再来を拒絶される。
決して攻撃的に襲われるわけではなく、逸脱を拒絶という形で表される。

 情報社会の暗部を描いた映画であるが、極めて観念的な展開で、非常に男性的な見方に基づいた映画である。
精神の飢えが、人間同士を引き付けることがあるのは当然としても、一般的な女性はサラのような行動はとらないだろう。
経済力を持たず自立してない人間が、孤独を感じることは有り得ない。
サラが売春婦という、男性と同じように経済力を持った自立した女性だからこそ、孤独を男性と共有しあえた。

 映像的には、短いカットがいったり来たりする手法を使って、時間が小刻みに前後している。
それが心理の揺れの表現となっていた。
観念がとらせた映画である。
すこし気になったのは、心理描写を音楽の台詞でやっていたことで、あれは画面に集中させたほうがいいように感じたが、英語が母語である人には自然だったのだろうか。

 動物のように、素肌と素肌を触れ合って一緒にいる、そのことが癒しである。
とにかく、そこにもう一人の人間がいることが、精神の安定を生み出す。
この映画では、男性と女性の心的な違いはない。
男と女が同じように自立したとき、男女間には性による違いはなくなっている。
情報時代の男女の共感・相互理解のされ方として、非常に印象的な映画であった。
監督の時代を見る目を絶賛したい。

1995年のアメリカ映画


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