タクミシネマ                   バードケージ

☆☆ バードケージ   マイク・ニコルズ監督   

 またまた家族映画である。いまアメリカは、本当に家族に関して、悩み抜いている。
最近見たアメリカ映画は、アクション映画を別にすれば、家族を主題にしたものばかりである。
そのアクション映画だって、古き良き時代の家族像は登場せず、主人公は離婚していたり、ゲイだったりといった有り様である。

 20年も一緒に生活しているゲイのカップル、アーマンドとアルバートは、ドラッグ クイーンのナイト クラブを経営している。
男役のアーマンドが経営者兼舞台のディレクターで、女役のアルバートはそこの花形役者である。
彼らはその上階に住んでいる。
ゲイ夫婦の一人息子ヴァルが、超保守的な上院議員の娘と結婚することから、映画の主題にはいる。

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劇場パンフレットから

 男役をやっているアーマンドは、かって恋人とのあいだに子供をもうけた。
しかし、その恋人=生みの母親とは、出産以来会ってもいず、ヴァルは母親役のアルバートによって育てられた。
結婚する相手の両親は、旧来の道徳を死守することをモットーとした上院議員である。

 彼らには、自分の両親たちのような生き方は、絶対に理解してもらえないと心配した息子は、結婚相手の両親が来る日だけはストレートの家庭を演出してくれと頼む。
しかたなしに承諾した父親は、室内の改装をはじめ、家具などすべてをストレート風にする。

 問題は、母親をやっているアルバートである。
女性的な仕草の彼を、叔父ということで紹介しようとするが、すると今度は母親がいない。
慌てて生みの母親をたずねて、彼女に同席して貰うことにする。
しかし、生みの親が交通渋滞に巻き込まれて、対面の会食に間に合わないあいだに、母親役のアルバートが女装し母親を演じて登場する。

 そんなことは予定になかったので、アーマンドとヴァルとは驚くが、意外なことに上院議員とアルバートは話が会う。
そこへ遅れてきた生みの母親が登場、上院議員は二人も母親がいることに説明をもとめる。
観念した息子は、育ての親つまりゲイの男性アルバートを母親だと紹介する。
生みの親より育ての親、血縁より精神性のつながりを重んじるここは、感激の涙ものである。

 同士である保守派の上院議員が、道徳維持連盟を結成し、その長におさまった。
そして、娘の父親である上院議員がその副長になる。
するとすかざず、長になった上院議員が、未成年の黒人売春婦のところで腹上死する。
道徳維持を訴える本人が、反道徳的な死にかたをしたため、上院議員にはマスコミが張りついている。

 マスコミをすべてまいたつもりだが、しつこく食い下がる記者が、上院議員を追いかけて結婚相手の家までついていく。
記者の動向をモニターで見た他のマスコミは、彼らの劇場に殺到する。
ゲイ夫婦と上院議員の組み合わせは、絶好の新聞ネタになる。
それを恐れた上院議員は、アーマンドの家から出られない。
マスコミに包囲された上院議員一家は、女装してそこから脱出する。
そして後日、若い二人は両方の両親に祝福されて、めでたく結婚する。

 この映画で、家族の原則が確立されたように思う。
息子が、ゲイの男性を母親だと紹介したあと、もう一人の女性を生みの親だと紹介する。
生みの親と育ての親が異なることは、いままでだってあった。
ただ両方とも、女性だった。それが、いまや家族を構成する原理は、性を問わなくなった。
子供を生むことこそ女性にしかできないが、育てるのは男性でも女性でも、子供に愛情さえもっていれば、誰でも構わないと、この映画で宣言された。

 いままで様々な形の家族が云々されてきたし、これからも激論が続くであろう。
しかし、この映画が出たことによって、家族の絆は性とか血縁いう属性によるのではなく、個人と個人をつなぐ純粋に精神的な愛情なのだと確定した。

 これからも愛情とはどうあるべきか、と言った形での家族論はあるだろうが、もはや対なる男女という性別が家族に持ち込まれることはないだろう。
愛情は精神にだけ支えられるという当たり前のことが、本当に長く当たり前に認められなかった。
家族愛だって同じことである。
情報社会になって、人間が自然の支えを失ったと同時に、愛情という精神活動も自立したのである。

 ゲイの映画は、キワモノとかb級映画と見られがちだが、実にしっかりした構成と、ふんだんにお金をかけてつくられた映画である。
映画はクラブの舞台シーンから始まるが、その舞台の役者たちがメジャーのダンサーである。
しかも、流れている曲が「ウィ アーファミリー」で、ドラッグ クイーンたちはみんな家族だと歌い踊る。
しかもその同じ曲が、最後に流れるというエンディング。

 ゲイの解放とか、単家族の誕生や家族の拡大という方向の映画はつくられても、古典的な家族の維持という方向の映画はない。
この方向は、もはや変わることはないだろう。
自由な家族形態の映画が受け入れられるアメリカは、やはり時代の最先端を進んであり、わが国がそこまでたどり着くのは、何年先になるのだろうか。 

1996年のアメリカ映画


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