アメリカ北部のメイン州の田舎町ギリアドに、一人の若い女性パーシー(アリソン・エリオット)がやってきた。
彼女は継父に妊娠させられ、しかも殴られて流産させられたので、継父を殺してしまった。
そのために5年間にわたり服役していたが、身よりのない彼女は社会復帰先もなく、看守の紹介でこの町にやってきた。
彼女の経歴はだんだんと明らかにされるが、最初は出所してきたことだけが観客には知らせられる。
町の保安官の口利きで、年老いた女主人ハナ(エレン・バースティン)が一人で切り盛りするスピットファイヤー食堂に住み込んで、彼女は人生をやり直そうとした。
保安官の口利きがあったものの、元犯罪者と意固地な年寄りで、最初のうち両者は心を開かなかった。
ハナは高齢化のため、体がだんだんと弱っていた。
ある日、ハナが転倒し足をくじき、食堂の料理を作る者が誰もいなくなってしまった。
そこでパーシーは、ハナから食堂の経営を任される。
同時に料理のできないパーシーを助けて、近所に住む甥ネイハムの奥さんシェルビーが、パーシーの助手として厨房に立つようになる。
それから徐々に、女性三人の間に心が通い始める。
ハナは食堂を売りたいと考えて、甥に売ってくれるように頼んでいたが、10年越しで売れなかった。
そこで、パーシーが作文コンテストをしたらどうかと提案する。それは、100ドルの登録料を添えて、なぜこの食堂がほしいか作文を書かせるものだった。
全米から膨大な応募があり、大金が集まるのだが、甥は以前からパーシーを疑っている。
この大金を持って、パーシーが逃亡するのではないかと心配した彼は、ハナの金庫からお金を隠そうとする。
お金を麻袋に入れたところで、パーシーが来てしまう。
あわてて隠れると、パーシーはいつものように、その麻袋に缶詰を詰めて、裏庭に出した。
実はハナにはイーライという一人息子がいたが、ベトナム戦争から帰った彼は心に傷を受け、誰とも接触をたって、裏山に隠れて住んでいた。
彼女はイーライが口をきいてくれないことを悲しみ、誰にも知らせずに、食料を麻袋に詰めてそっと提供していた。
それがパーシーの仕事になっていた。
いつの間にかパーシーは、無言のイーライと心が通うようになっていた。
ある日の散歩の時、イーライがそっとパーシーのもとに寄ってきて、無言で美しい景色に見入る。
それをハナに咎められたパーシーは、シェルビーに教えられた教会で一時を過ごす。
翌日お金のなくなったのを見て、パーシーの犯行と疑われた。
しかも、イーライのことを知らない村人は、イーライとパーシーがぐるになっていると考え、山に捜索隊を出す。
甥の奥さんシェルビーはパーシーの無実を信じており、パーシーを探しに教会へ行く。
そこでシェルビーに、パーシーの過去が語られる。
そこへ保安官が来て、パーシーは身柄を拘束される。
イーライが捜査対象だと知ったハナは、パーシーにイーライを探すように頼む。
パーシーはイーライを見つけたが、彼女は濁流に巻かれて死んでしまう。
作文コンテストの受賞者は、パーシーと良く似た境遇の女性に決まり、その女性がバスから降りるところで映画は終わる。
実によくできた映画である。
まず主人公パーシーが継父に妊娠させられ、それでもお腹の子供は自分の子供だと、大切にしていたのが、流産させられての継父殺し。
主人公の設定が現代的で、家族の崩壊した社会でも子供に愛情を注ごうとする。
パーシーは貧困に育ち、自分のものが何もない。
やっと手に入れたお腹の子供を守れずに、殺されてしまった。
憎い相手の子供であっても、いったん身籠もってしまえば、我が子であるその結果の殺人。
刑務所では受刑者に、州の観光事務所の電話サービスの代行をやらせている。
これも伏線として、あとで効く。
パーシーは出所したが、田舎の町はよそ者を受け入れにくい。
しかし田舎の町も、すでに古き良き家族は崩れている。
シェルビーに教えられた、今は使われてない教会からは、共同体の崩壊と孤独感が伝わってくる。
しかもその場所が、現代人の心の癒しになる。
ハナの甥の奥さんシェルビーは、少しおつむが弱いと馬鹿にされていたが、パーシーを手伝うようになって、旦那のネイハムから自立していく。
働くことによって、自分の料理の才能が認められ、仲間ができて自信を持ち始める。
彼女は今までも料理は作っていたが、家事労働としての料理では、自立の手助けとはならない。
その過程も良く伝わってきた。
また、息子との心の交流を失い、年寄りになったハナの意固地になった生き方。
自然な展開である。
ややのろい前半には、たっぷりと伏線が張られ、それが終盤へとうまく絡んでくる。
パーシーがバスで降りる始まりは、作文コンテストの当選者がバスで降りるところへ。
教会でのパーシーとシェルビーの会話は、シェルビーが彼女を捜し出し、パーシーの身の上が語られるところへ。
イーライとパーシーの無言での心の交流。
イーライを追って入る滝の風景が、後半のパーシーの死を暗示。
前半に見せた部分が後半になって、上手にまとまってくる。
出所した人間が、孤独であるのはもちろんだが、現代人はすべてが孤独であり、その癒しを欲している。
しかも、核家族は崩壊し、個人に解体させられてしまった。
長寿化は一人になった年寄りを生み出す。
そうした中で、人間はやはり愛情にすがって生きる。
それはかつてのように血縁の家族ではなく、もちろん経済的な利害に支えられたものでもない。
ただ愛情という純粋に精神的なものである。
リー・デビッド・ズロートフという男性監督の1996年の作品だが、心の細かいひだや動きを丁寧に拾って、映像化している。
自然に対する憧憬と人間の関わり。通常の生活から逸脱してしまった人間への寛容な対応。
変化を嫌う田舎の人への、余裕のまなざし。
古い生活と新しい生活のきしみ。
文字で書かれる小説と違って、映像という特長を充分に生かして、作られた実に優れた映画である。
お金がかかっておらず、派手なアクションもセックスシーンもない。
しかも室内では露出がアンダーとなって、色がきちんとでていない。
特別の名優がでているわけではなく、演技で感動したわけではない。
良く時代を捉えていることが、この映画の最大の美点である。
しかもそれが、人間の本質に良く迫っている。
この映画は、これからの家族のあり方に、明らかに新たな一石を投じている。
財産を持った老人と、逸脱した若者、相続者と使用人。
ハナがこの食堂を譲っても、パーシーとシェルビーはここで働き続けるに違いない。
作文コンテストといった形で、財産の相続といった問題にまで、射程が入っている。
たった100ドルで、食堂付きの田舎の家を譲ってしまう。
ハナには大金が入り、誰も損をしていない。
血縁者が相続するのではなく、一枚の手紙に書かれた文章で、譲る人間を決める。
ここには新しい相続の形態がある。
既存の相続税や贈与税の制度も、こうした状況に対応せねばならない。
この映画では、コンテストの周知は新聞を使っていた。
情報の周知が簡単に誰にもできるようになると、血縁に頼らなくても生きていける。
そして公平な関係が成立するようになる。
農耕社会では、血縁や地縁が人間を支えたが、同時にそこは差別の多い世界だった。
閉じられた社会では、有力者が有利だったが、大衆化した情報社会では、有力な個人でも数の前に歯が立たない。
パンフレットによれば、監督はオハイオ州の貧困な町のこと、メイン州の宿屋が作文コンテストを行ったこと、受刑者を観光事務所で働かせている刑務所の話の三つから刺激されて、この脚本を書いたという。
映画はまさにその社会を反映する。
アメリカは病んでいるだろうが、それは次の時代への陣痛でもある。
最初のバスのシーンが雪の夜で暗く始まり、最後のシーンが明るい祭りのシーンで終わる。
希望を象徴したエンディングである。現代を主題にした、心温まる映画だった。
原題は「The spitfire grill」という元気のいいものある。
他所から来た天使とは、どこにも書いてない。
確かに変化のない田舎町には、外来者は変化をもたらすかもしれないが、この映画はそれが主題だとは全く描いてない。
この映画は、農耕社会の人間関係を訴えたかったのではなく、現代の人間関係を扱っている。
にもかかわらず、これを農耕社会にあった放浪の他者=旅人のように扱って、この邦題をつけるのは、日本の配給関係者は時代が分かってない。
1996年のアメリカ映画
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