タクミシネマ         ガール ファイト

☆☆ ガールファイト      カリン・クサマ監督

 女性がとうとうここまで来たかという、なんともいえない感慨におそわれる。
女性の台頭は着実に続いており、彼女たちは自分たちの地歩を確実に固めつつある。
男性を攻撃するだけではなく、男性とも充分に相互理解ができる地平へとすすんでいる。

 ヒステリックなフェミニズムは影をひそめ、女性が真に自立し、男女の協力体制ができつつあるように感じる。
女性監督のメッセージをしっかりと受けとめ、無条件に星2つをつける。
今年の最高といっても良い映画である。


ガールファイト [DVD]
 
前宣伝のビラから
 高校3年生のダイアナ(ミシェル・ロドリゲス)は、女性でありながら喧嘩っ早く、すぐに手をだす。
すでに四回も、注意処分を受けている。
いわばオチコボレで、家庭にも居所はない。
そんな彼女が、ひょんなことからボクシングを始める。
彼女のボクシングへの動機付けがちょっと弱いとか、階級の違いが体つきに反映していないとか、この映画にはいくつかの欠点もある。
しかし、そんなことはどうでも良い。
とにかく彼女はボクシングに、はまるのである。

 リングのうえでは、誰の援助もない。男女は関係ない。選手はたった一人で闘う。壁に貼られた格言が、たくさん登場する。<ボクシングは力より頭だ><お前が練習を休んでいるあいだにも、誰かがトレーニングに励んでいる>などなど、ボクシングは孤独な競技である。

 考えてみれば、誰でも一人である。
社会が不正義だから、女性は劣者のままで良いとはならない。
悪いのは男性のせいだ、と言っても始まらない。
もちろん社会的な不正義を正すことも大切だが、個人は不正義のなかでも生き延びなければならない。
徹底した個人主義である。

 頭脳労働への転換が女性の台頭を招いたとしても、肉体的な腕力は男性より相変わらず劣っている。
ほとんどの競技が、男女別でおこなわれるのを見ても判るように、男女の肉体的な差は如何ともしがたい。
しかし、アメリカの女性たちは頭脳だけではなく、腕力でも男性と同じになろうとする。
それは「カット スロート アイランド」や「giジェーン」などの映画が、作られてきたことでもわかる。
わが国のへなちょこフェミニズムとは、力の入り方がまったく違う。
アメリカの女性たちにとって、体を鍛えるのに目覚める段階は、とうに過ぎた。


 ボクシングのように、体重別のシステムをとっているスポーツでは、男女の性別の違いによって男女の試合をさせないことは、理由になりにくい。
ボクシングが危険なスポーツだからという理由で、女性をリングから閉めだすことは、明らかな差別である。
女性が望めば、リング上で男女が闘うことを妨げる理由は、もはや何もない。
望んでもそれがかなえられないとき、希望を妨げるその制度は差別である。
自己決定権の獲得、これが女性台頭の原動力だった。
同じ条件なら、誰とでも戦えるのが平等である。
この映画の主張は、それに止まらない。

 この映画は、一人の女性がボクシングに打ち込む姿を描くだけではない。
ダイアナはボクシングを通じて、恋人エイドリアン(サンティアゴ・ダグラス)ができる。
彼も同じフェザー級である。
初戦、二回戦と勝ち進んだ二人は、決勝で闘うことになってしまった。

 当初、二人が闘うことになるとは、思ってもみなかった。
そのため、男性であるエイドリアンのほうが、闘うことに躊躇する。
この部分の心理描写は、鋭く深い。
挑戦者はいつも気楽なのだ。
守りにまわらざるをえない王者のほうが、心理的な重圧は大きい。
現代社会では男性が王者で、女性は挑戦者である。
女性は非力だとみなされている。
女性に勝っても名誉ではないし、負ければ立つ瀬がない。
多くの男性には、女性を守りたいという差別的な心理も働く。
しかも相手は恋人である。

 恋人を相手にして、闘争心を剥きだしにして、必死で殴り合うことはできない。
それが大人の対応である。
彼は試合を降りようとする。
しかし、ダイアナは許さない。
全力で相手をするように要求する。
もちろん男性間であれば、手抜きの対応は相手への侮辱である。

 ダイアナは男性を相手にするのと同じ対応を要求する。
躊躇しながら、エイドリアンは試合にのぞむ。
全力で戦いはするが、すでに心意気で負けている。
だから、彼は試合に負ける。
女性に負けた男性は、女性からの愛情を失うかと思えば、そうではない。
全力で闘ってくれた恋人を、ダイアナはあらためて尊敬する。
フェアープレイに感動する心理は、男女を問わない。
二人の関係はかえって深まる。


 現実では映画のように単純にはいかないだろう。
それに女性が負けるかもしれない。
しかし、女性監督がつくったこの映画のメッセージは、充分に伝わってくる。
男女が同じ条件で闘う、その条件作りは相当に進んだ。
これからは男女がよきライバルとして、フェアープレイの精神できちんと闘うことを求めはじめた。
男性だから女性だからではなく、個人として見ればいいのだ、と監督は言う。
男性間であれば、負けても友情は続くではないか。
男女の間にあっても、事情はまったく変わらない。
手心を加えるほうが、相手に失礼なのだ。

 ダイアナを演じたミシェル・ロドリゲスは、まったくの新人だと思う。
訓練を受けた役者たちには、彼女のような目つきの雰囲気はない。
訓練というのは、過去のレシピを身につけることである。
だから、ステレオタイプから逃れることはできない。
上手い役者でればあるほど、過去のイメージを再現しがちである。
ダイアナはこの一作だけの役者かもしれないが、孤独で芯の強い女性を見事に演じていた。
彼女の三白眼は、実に印象深い。
おそらく演じたと言うより、あれが彼女の地だったのだろう。

 汚いジムの窓を開けるシーン、父親との格闘で父親を負かすシーンなど、きちんと意味がある。
映画の構成としても、良くできている。
そして、コーチのヘクター(ジェイミー・ティレリ)の存在も良かった。
この映画には、有名な俳優は一人もでていない。
もちろんお金もかかっていない。
SFXも使っていない。
優れた映画の規準とは、その映画が何を主張するかである。
時代を切りひらくような主張が、自然のうちに観客に伝われば、大成功である。
小さな映画ではあるが、この映画の主張は大きい。

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