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歴史をしっかり見据え、現代への問題を提出した秀作である。 本作は18世紀の後半におきた事件を借りて、現代への主張がきっちりと盛りこまれている。 歴史を借りた現代物である。コスチューム・プレイはあまり好きではないのだが、時代劇でしか表せないものは、充分に肯定する。
そのために逮捕・投獄されていたが、むしろ精神に異常があるということで、精神病院に収容された。 まず、精神病院の存在が、歴史の転回点をまわった後を意味している。 近代までは、精神を病んだ人という概念がなかったから、精神病院なるものは存在しなかった。 近代にはいるとき、精神異常という概念が生じ、精神病院が誕生したのだ、というのはミッシェル・フーコーの解説でも有名である。 監獄、学校こうしたものは近代の産物で、人間を教育しようとして生まれたものだ。 人間を教育するって? どう教育するというのだろうか。 人間を教育するとは、恐ろしいことだ。 この映画はサドの事件を扱っているが、ほんとうの主題はサディズムではない。 思想・信条の自由は誰にも奪えないものであり、観念の世界での遊戯こそ人間を人間たらしめ、悪があるがゆえに正義の深さが判るのだ、というのが主題である。 近代にはいるときには、さまざまに新たな考え方が誕生した。 それまでは教会が真を決定し、教会の決定が自動的に善なるものだった。 しかし、この時代から、真は真として探求されるようになり、真と善は別物となった。 そして同時に、人間の思考には自由が必要なのだと、認識されるようになった。 自由に考えることが創造につながり、真をきわめて新たな展開をうむのである。 真なるものの追求は、自由な環境でなければできない。 創造性が認められるべきだといったとき、その創造性は社会に好都合なものばかりを生むのではない。 反社会的なものも、自由な創造力の産物である。 情報社会は、創造力による観念的世界のきわみであり、自由な発想が最大限に確保される必要がある。 しかし、情報社会化は同時に、酒鬼薔薇聖人のような少年aをも生みだす。 自由である環境とは、パンドラの箱を開けたことであり、正義と悪は二つとも生まれてしまう。 ここで悪だけを抑制しようとすれば、同時に正義も窒息させてしまう。 自由を謳う近代とは、まさにサドのような人物も、許容せざるをえなかったのだ。 真と善が分離し、思考の自由が確立するとは、フィクションを楽しむことが可能になったことでもある。 スパイ小説やミステリーを読んでも、誰も筆者が殺人を犯しているとは思わない。 虚の世界は虚の世界としてあることを知っている。 しかし、公序良俗なる言葉が登場するとき、虚の世界にも規制がかかってくる。 虚の世界である文章が、他の人の言動に悪い影響を与える。 あの唾棄すべき小説を読んだから、恐ろしい殺人事件が生まれた、と短絡的に考える人がいる。 そこで何を考えてもいい、しかし、出版してはいけない、というわけだ。 これでは真と善の一致した前近代へ逆戻りである。 不敬罪で投獄されたのである。 現在でも、前近代にあるイスラムの世界では、アラーの神を貶めることは犯罪である。 「悪魔の歌」の翻訳者に、天誅が下ったのは記憶に新しい。 前近代的世界では虚と実が分離していないし、真と善も分離していない。 この映画で、真を体現するのはサドで、善を体現するのはサドを厳しく扱うロワイエ・コラール博士(マイケル・ケイン)である。 そして、真と善をすり合わせようと奔走するのが、ド・クルミエ神父(ホアキン・フェニックス)である。 観念の自由を代表するサドと、現世の秩序を代表するコラール博士である。 サドはとどめもなく沸き出す妄想的な文章を書き続ける。 秩序側は許すはずがない。 二つの絶対が対立するとき、両者のあいだを両立させるべく、取りもとうと行動するものは、破産する運命にある。 良心的であればあるほど、その最後は悲劇的にまた喜劇的にならざるをえない。 この映画は、ド・クルミエ神父に思い入れを入れながらも、彼の行動は決して報われない。 しかも、良心的たらんとする神父は、高踏的でなければならない。 コラール博士以上に、ド・クルミエ神父は女性に欲情してはいけないのだ。 サドの書いたものを、出版社に手渡していたマドレーヌ(ケイト・ウィンスレット)は、ド・クルミエ神父に思いを寄せてもいた。 神父も憎からず思っていたのだが、神父である以上女犯は厳禁である。 神父はマドレーヌから告白されても、断腸の思いでそれを拒絶する。 しかし、彼女が死んでしまうと、彼はたまらずに美しいマドレーヌの上にのり、死姦の夢を見てしまう。 良心的行動の破産という話の進め方は、絶品である。 しかもサドが死んでから、神父は書くことが思想の自由であることに気づき、書くことに目覚める。 神父はその時すでに、コラール博士によって幽閉され、殺されたサドと同じ立場に置かれている。 そのうえで、近代によってパンドラの箱を開けたことが、悪をも呼び出してしまったけれど、それは不可避だったのだという。 真と善の分離が必然だとすれば、正悪をあわせて許容しなければならない。 それはまさに現代である。 インターネットが無法地帯と化したから、公序良俗に反するといった新たな秩序擁護の動きに対して、完全として立ち向かっているのだ。 18世紀という近代の入り口での思想の自由と、21世紀という近代の終わりでの思想の自由を、この映画は二つながら対置している。 18世紀における思想の自由はかわいいものだった。 それでもあれだけの混乱と、抑圧があったと描く。 21世紀における思想の自由は、より過激になるだろう。 素晴らしい発明や発見もたくさん登場するだろうが、同時に極悪なものも登場するだろう。 しかし、悪が登場したからといって、創造力を窒息させてはいけない。 悪こそ正義の奥行きを深めてくれるのである。 それがこの映画の主題である。 やや暗い画面ながら、そして執拗なまでに、精神病院での日常を描きこんでいる。 コラール博士の体現する秩序はあくまでも清潔で美しく、サドの体現する観念の世界は不潔である。 当初は清潔だったド・クルミエ神父も、観念の世界に移動するにつれて、不潔になってくる。 この対比が鋭い。 歴史に対する深い認識、綿密に練られた脚本、達者な演技人たち。 2時間を圧倒的な画面で見せている。 アメリカ映画と言いながら、この執拗さはイギリスやフランスの映画のようだった。 「ラリー・フリント」を思いだしながら、二つ星をつける。 2000年のアメリカ映画 |
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