タクミシネマ          クイルズ

☆☆ クイルズ    フィリップ・カウフマン監督

 歴史をしっかり見据え、現代への問題を提出した秀作である。
本作は18世紀の後半におきた事件を借りて、現代への主張がきっちりと盛りこまれている。
歴史を借りた現代物である。コスチューム・プレイはあまり好きではないのだが、時代劇でしか表せないものは、充分に肯定する。

 
クイルズ (特別編) [DVD]
 
前宣伝のビラから
マルキ・ド・サド(ジェフリー・ラッシュ)は、いささか尋常ならざる性癖があった。
そのために逮捕・投獄されていたが、むしろ精神に異常があるということで、精神病院に収容された。
まず、精神病院の存在が、歴史の転回点をまわった後を意味している。

 近代までは、精神を病んだ人という概念がなかったから、精神病院なるものは存在しなかった。
近代にはいるとき、精神異常という概念が生じ、精神病院が誕生したのだ、というのはミッシェル・フーコーの解説でも有名である。
監獄、学校こうしたものは近代の産物で、人間を教育しようとして生まれたものだ。
人間を教育するって? 
どう教育するというのだろうか。
人間を教育するとは、恐ろしいことだ。

 この映画はサドの事件を扱っているが、ほんとうの主題はサディズムではない。
思想・信条の自由は誰にも奪えないものであり、観念の世界での遊戯こそ人間を人間たらしめ、悪があるがゆえに正義の深さが判るのだ、というのが主題である。
近代にはいるときには、さまざまに新たな考え方が誕生した。


 近代を決定づけるのが、真なるものと善なるものの分離であろうし、それを支えるのは考える自由だった。
それまでは教会が真を決定し、教会の決定が自動的に善なるものだった。
しかし、この時代から、真は真として探求されるようになり、真と善は別物となった。
そして同時に、人間の思考には自由が必要なのだと、認識されるようになった。
自由に考えることが創造につながり、真をきわめて新たな展開をうむのである。

 真なるものの追求は、自由な環境でなければできない。
創造性が認められるべきだといったとき、その創造性は社会に好都合なものばかりを生むのではない。
反社会的なものも、自由な創造力の産物である。
情報社会は、創造力による観念的世界のきわみであり、自由な発想が最大限に確保される必要がある。

 しかし、情報社会化は同時に、酒鬼薔薇聖人のような少年aをも生みだす。
自由である環境とは、パンドラの箱を開けたことであり、正義と悪は二つとも生まれてしまう。
ここで悪だけを抑制しようとすれば、同時に正義も窒息させてしまう。
自由を謳う近代とは、まさにサドのような人物も、許容せざるをえなかったのだ。


 真と善が分離し、思考の自由が確立するとは、フィクションを楽しむことが可能になったことでもある。
スパイ小説やミステリーを読んでも、誰も筆者が殺人を犯しているとは思わない。
虚の世界は虚の世界としてあることを知っている。
しかし、公序良俗なる言葉が登場するとき、虚の世界にも規制がかかってくる。

 虚の世界である文章が、他の人の言動に悪い影響を与える。
あの唾棄すべき小説を読んだから、恐ろしい殺人事件が生まれた、と短絡的に考える人がいる。
そこで何を考えてもいい、しかし、出版してはいけない、というわけだ。
これでは真と善の一致した前近代へ逆戻りである。

 近代以前は、キリストを信じていないとか、天皇は人間だといったら、それだけで犯罪になり兼ねなかった。
不敬罪で投獄されたのである。
現在でも、前近代にあるイスラムの世界では、アラーの神を貶めることは犯罪である。
「悪魔の歌」の翻訳者に、天誅が下ったのは記憶に新しい。

 前近代的世界では虚と実が分離していないし、真と善も分離していない。
この映画で、真を体現するのはサドで、善を体現するのはサドを厳しく扱うロワイエ・コラール博士(マイケル・ケイン)である。
そして、真と善をすり合わせようと奔走するのが、ド・クルミエ神父(ホアキン・フェニックス)である。

 観念の自由を代表するサドと、現世の秩序を代表するコラール博士である。
サドはとどめもなく沸き出す妄想的な文章を書き続ける。
秩序側は許すはずがない。
二つの絶対が対立するとき、両者のあいだを両立させるべく、取りもとうと行動するものは、破産する運命にある。

 良心的であればあるほど、その最後は悲劇的にまた喜劇的にならざるをえない。
この映画は、ド・クルミエ神父に思い入れを入れながらも、彼の行動は決して報われない。
しかも、良心的たらんとする神父は、高踏的でなければならない。
コラール博士以上に、ド・クルミエ神父は女性に欲情してはいけないのだ。


 サドの書いたものを、出版社に手渡していたマドレーヌ(ケイト・ウィンスレット)は、ド・クルミエ神父に思いを寄せてもいた。
神父も憎からず思っていたのだが、神父である以上女犯は厳禁である。
神父はマドレーヌから告白されても、断腸の思いでそれを拒絶する。

 しかし、彼女が死んでしまうと、彼はたまらずに美しいマドレーヌの上にのり、死姦の夢を見てしまう。
良心的行動の破産という話の進め方は、絶品である。
しかもサドが死んでから、神父は書くことが思想の自由であることに気づき、書くことに目覚める。
神父はその時すでに、コラール博士によって幽閉され、殺されたサドと同じ立場に置かれている。

 この映画のすごいところは、近代史のなかでイギリスでもドイツでも、良心派がどのような役割を果たしたか、歴史を丁寧に拾っていることである。
そのうえで、近代によってパンドラの箱を開けたことが、悪をも呼び出してしまったけれど、それは不可避だったのだという。

 真と善の分離が必然だとすれば、正悪をあわせて許容しなければならない。
それはまさに現代である。
インターネットが無法地帯と化したから、公序良俗に反するといった新たな秩序擁護の動きに対して、完全として立ち向かっているのだ。

 18世紀という近代の入り口での思想の自由と、21世紀という近代の終わりでの思想の自由を、この映画は二つながら対置している。
18世紀における思想の自由はかわいいものだった。
それでもあれだけの混乱と、抑圧があったと描く。

 21世紀における思想の自由は、より過激になるだろう。
素晴らしい発明や発見もたくさん登場するだろうが、同時に極悪なものも登場するだろう。
しかし、悪が登場したからといって、創造力を窒息させてはいけない。
悪こそ正義の奥行きを深めてくれるのである。
それがこの映画の主題である。

 やや暗い画面ながら、そして執拗なまでに、精神病院での日常を描きこんでいる。
コラール博士の体現する秩序はあくまでも清潔で美しく、サドの体現する観念の世界は不潔である。
当初は清潔だったド・クルミエ神父も、観念の世界に移動するにつれて、不潔になってくる。
この対比が鋭い。
歴史に対する深い認識、綿密に練られた脚本、達者な演技人たち。
2時間を圧倒的な画面で見せている。
アメリカ映画と言いながら、この執拗さはイギリスやフランスの映画のようだった。
ラリー・フリント」を思いだしながら、二つ星をつける。

2000年のアメリカ映画

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