タクミシネマ        ホワイト オランダー

 ☆☆ ホワイト オランダー  ピーター・コズミンスキー監督

 なんと厳しい映画だろうか。
女性の原作だと言うが、主題のシャープさに驚嘆する。
情報社会のもたらすものを、しっかりと見つめながら、しかも、犠牲になる子供や女性に、暖かい視線を送っている。
技術的な意味では、映画の作りにはやや疑問がある。
しかし、その志と現状認識の精確さ、そして人間を信頼しようとする温かい心に、採点を甘くして星二つを進呈する。
ホワイト・オランダー [DVD]
劇場パンフレットから

 自立した女性イングリッド(ミッシェル・ファイファー)は、自分の娘アストリッド(アリソン・ローマン)に大変な愛情を注いでいる。
しかし、自己の自立と娘の成長は別物である。
そのうえ、自立しているがゆえに男性に対して、一切の妥協を許さない。
彼女の家庭に娘はいるが、夫=父親であるはずの人間はいない。
彼女は一人で娘を育てていた。

 恋人となる男性が現れたが、妥協を許さない彼女は、平穏な男女関係が作れない。
男性の身勝手な行動に、彼女は切れてしまう。
その結果、彼女は恋人を殺してしまう。
彼女は殺人罪で収監されたので、アストリッドは孤児院から里親を巡り歩く羽目となる。


 母親から離れてみると、社会は様々な色彩で満ちていた。
むしろ、母親は自分の自立に固執するあまり、娘の自我を許さず、母親のエゴを押しつけていたことが徐々に分かってくる。
すでに思春期を迎えたアストリッドは、女性的な魅力を持ち始めているので、里親の家庭でも何かと物議をかもしだす。

 この映画が前提としている状況は、すでに日常化されているだろう。
女性が自立すれば、男性が女性を養わなければならない理由はない。
経済的な理由は男女をつなぎ止めない。
精神的な関係だけが両者を繋いでいるので、男女の仲は簡単に破綻する。
しかし、女性は妊娠することがあるから、別れた後で子供の対応に直面する。
この映画では、イングリッドは子供を産むが、とても育てる気持ちにはなれず、子供おいて他の男と生活を始めてしまう。

 それも当然だろう。
わずか20歳そこそこで、子供ができたからと言って、自由で気ままな生活を放棄するのは難しい。
子供は自由な生活の足かせ、と感じても何の不思議もない。
子供がほしくてセックスしたのではなく、楽しいからセックスしたのである。
その結果、子供ができたにすぎない。
しかし、子供は自分が望んでこの世に誕生したのではない。
子供の誕生は、子供には何の自覚も持ちようがない。


 役割に生かされていた時代なら、子供ができたら子供を引き受けて、子育てという地味な生活を送っただろう。
同時に、男性が経済的な支えになるという、性による役割分担が生まれたはずである。
しかし、それは女性にだけ犠牲を強いるものだったから、男女の平等に反すると女性が反旗を掲げた。
自立した女性が、地味な生活を納得するわけがない。
この映画のきっかけを作るイングリッドは、まさに自立した女性であり、監獄に収監されても絵画の制作を続け、とうとう個展を開くまでになる。

 イングリッドは自分の生きることに必死であり、それは20世紀に女性が獲得した地位の表現に他ならない。
彼女は恋人を殺して有罪となっても、まったく後悔していないどころか、むしろ自分の行動の正しさを信じて疑わない。
裏切った男性を殺しても、倫理的に責められることがないのは、まったく正しい。
いままで男性が女性に押しつけてきた不平等を考えれば、男性が殺されても仕方ないことでもある。

 しかし、法は社会的な反抗を、個人的な救済として実現することを許さない。
女性がどんなに虐待されても、取り扱いが理不尽であっても、私的な制裁や復讐を、法は許さない。
イングリッドが恋人を殺すことは、感情では理解できるが、それを法は許さない。
法は殺人者を男女の別なく裁く。単親の女性が収監されれば、産んだ子供の責任は、女性の上にだけかかってくる。
女性の自立は、妊娠する女性の身体と切り離せない。

 女性は性の自己決定権を手に入れたが、その結果も引き受けざるを得ない。
避妊は男女両方の責任であるが、男性は妊娠から逃げることができる。
しかし、女性は逃げることはできない。
性の快楽を楽しんだツケは、女性に厳しい結果をもたらす。
にもかかわらず、女性は性の自己決定権を手にしたので、セックスを楽しんでしまう。

 ここまでは母親イングリッドの話である。
母親の生き方の結果として生まれたアストリッドは、母親の生き方ゆえに自分の人生を免責できない。
彼女は自分で自分の人生を確立しなければ、生きていくことはできない。
ここで母親と娘の厳しい確執が始まる。
まさに<母殺し>である。
この構造は、近代に入るとき、男性が負わされたものとまったく同じである。


 前近代にあっては、人間=男性は神の子供だったから、生かされるままに生きていればよかった。
しかし、神を殺してしまった近代人は、それまで価値を担ってきた父親をも一緒に殺してしまった。
価値は父親が体現していたのだから、父殺しは実は自分を殺すことだったのであり、自分のよってたつ足場を再構築することだったのである。
それが判れば、今女性たちが立たされている位置も、男性が通ってきた道であることが判るだろう。

 男性が古い価値から自由になるためには、古い価値の象徴だった神を殺し、父を殺さざるを得なかった。
同様に、女性は母という古い価値を殺さなければ、新たな自分の人生が入手できない。
この映画は、父殺しと平行現象である母殺しを、きっちりとつかんでおり、きわめて哲学的である。
しかし、我が国では情報社会化が進んでいないので、残念ながらこの映画は、我が国では理解されないと思う。

 少ないながらも若い女性たちが、映画館に足を運んでいるのは、女性たちの直感なのであろうか。
ほとんど男性のいない映画館で、厳しい映画を見るのは、何ともいえない不思議な感じであった。
我が国でも何年か後には、この映画が描いているような女性が、登場するのは明らかである。
それまでは感情的な理解しかできず、論理立てた批評は見あたらない。
早すぎたランナーとしか言いようがない。

 この映画は、「彼女を見ればわかること」などと同様に小さな映画だが、有名女優が何人も出ており、彼女たちは採算を度返しして出演したのだろう。
里親のクレアを演じたレニー・ゼルウィガーが、うまい演技で驚嘆した。
彼女は「ザ・エージェント」で彗星のように登場したが、当時はたいしてうまい俳優だとは思わなかった。
しかし、<女子3日会ざれば刮目して見よ>まったくそのとおりであった。

 この映画は、「アメリカン ビューティ」が描いた家族を、少し進めてより厳しい目で見ている。
いずれにしてもアメリカでは、情報社会のもたらす功罪がしっかり認識され、プラスの面と同時にマイナス面にも思考が届いている。
これだけの状況を押しつけられたら、たいがいの子供はつぶれていくだろう。
しかし、この映画では、アストリッドはきちんと自我を確立していく。
おそらくこれは映画製作者たちの願望なのだろう。
厳しい状況でも子供たちは、生きる力を持っていると信じたいのは、映画製作者たちだけではない。

 ミッシェル・ファイファーは「デンジャラス・マインド」でも、子供の問題に取り組んでいたのをみると、ロバート・デ・ニーロなどと同様に、子供の問題には相当作為的なのだろう。
女性が自立したアメリカでは、すでに次の問題が子供の自立だと、広く認識されているようだ。
映画人たちにも主張がある。

 2002年アメリカ映画

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