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フェミニズムがアメリカ女性に何をもたらしたか、しっかりと現実を見すえた女性監督の映画かと思った。 しかし、ロドリゴ・ガルシアというヒスパニックの男性が監督であった。 男性支配の近代に挑戦した女性たちだが、この映画のようにシャープな視点を獲得するには、まだ時間が足りないに違いない。 女性が自己相対化できるようになるのは、時間がかかるのだろう。 それとも自己相対化の目は、男性のものだというのだろうか。
見ようによっては、この映画は女性バッシングともとれる。 そうした意味では、ヒスパニックのインテリ男性のほうが、先進国の女性を批判する眼をもち得るのかもしれない。 後日知ったところによると、アメリカでは地味な作風のため、オクラになったという。 しかし、わが国では若い女性で、映画館は満員だった。 彼女たちはこの作品のどこに感じるのだろうか。 この映画は女性を批判的に見てはいるが、決して女性を否定的に見ているわけではない。 一見すると厳しい見方ではあるが、むしろ女性を男性と同質の生き物としてみており、その意味では充分に温かい視線である。 神から離れた近代が、人間たちに豊かさをもたらしたが、経済の発展を担った男性たちには、孤独というお土産をもたらした。 神は独存であるがゆえに全能だったとすれば、神こそ絶対の孤独に生きていた。 男性がその神に代わったのだから、男性が孤独に襲われるのは必然だった。 自分の人生への決断を自己のものとした以上、自己決定権の獲得をめざしたフェミニズムが、神殺しにつながるのは当然である。 ここで女性も母を殺し、孤独の世界へと彷徨うのである。 5人の裕福な女性たちがオムニバス形式で登場し、五つの物語がからみながら、最後には一つの話へと収斂していく。 エレイン・キーナー(グレン・クローズ)は独身の医者で、痴呆気味の母親を介護している。 彼女は医者という地位を手には入れたが、心を開く男性がいない。 レベッカ(ホリー・ハンター)は銀行の支店長で、妻子持ちの男性と三年越し付き合いである。 妊娠したが、中絶する。 さばけていたつもりが、中絶は彼女に動揺を与える。 ローズ(キャッシー・ベイカー)は15才の息子と暮らす離婚した女性である。 子供はいるが、男性への興味は衰えない。 クリスティーン(キャリスタ・フロックハート)はゲイの恋人リリー(ヴァレリア・ゴリノ)と暮らすが、リリーは病魔に冒され余命いくばくもない。 キャッシー(エイミー・ブレナマン)は刑事をつとめるが、盲目の妹の世話から離れられず、未だに独身である。 5人の女性たちは、いずれも経済的にはそこそこの生活をしている。 彼女たちの豊かな生活は、自分たちが独力で手に入れたものである。 わが国から見れば、広い家に住み、優雅な日常を過ごしているようにさえ見える。 しかし、何かが足りない。 広い家に住むエレインにしても食事は1人だし、レベッカはヴォルヴォのコンバーティブルに乗るが、恋人には他に家庭がある。 他の女性たちも大同小異で、経済的には何の困難もなく、男性と同質の地位を手に入れた。 豊かさの影で、心の中を冷たい風が通りすぎ、その孤独さを如何ともしがたい。 彼女たちは人間関係に飢えているのである。 通俗フェミニストは、未だに対男性でしかものを見ていないから、女性は孤独ではないという。 この映画の男性監督は、女性を人間としてみている。 だから、男性が感じる孤独と同質なものを、いま女性も体験させられているという。 どちらが本物のフェミニズムかは明白であろう。 対男性での立論は、もはや女性の自立には役に立たない。 女性も男性からではなく、神から自己決定権を獲得するのである。 だから自我の確立は孤独である。この孤独を体験することなく、近代人たることはできない。 孤独だからこそ、個人の確立が急がれるのだし、人と人とのつながりが必要なのである。 この監督のメッセージは、よく伝わってくる。 孤独に耐えることが近代人の自我であり、いま女性もそこを通過している。 孤独をとおらなければ、近代人たり得ない。 孤独との付き合い方を覚えたら、その先は決して暗くはない、と監督はいう。 エレインとローズそれにキャッシーには、新しい恋人が登場しそうだし、レベッカは不倫の恋人との交際を止める。 リリーは不治の病気らしいから、クリスティーンは幸せになれそうもないが、それは男性だって同じこと。 かけがえのない人の病気は、ほんとうに辛いものである。 人間が生き物である以上、隣人の死に耐えることは、いつでも要求される。 画面の上の方にフィルターをかけて、茶色く処理しており、それが心の曇りをあらわしていたのだろう。 しかし、これは小手先のもので不要である。 画面はすべてくっきりと見せてほしい。 ゆっくりとした展開が、ややしつこく感じられたが、それは台詞が多かったせいかもしれない。 この映画の注目すべきは、出演陣である。 メジャーの看板映画ではないにも関わらず、つまりお金がかかっていないように見える映画だが、出演している女性たちは豪華である。 おそらくこの映画の主題に共感して、格安の出演料で出演したに違いない。 メジャーの映画に出演することも大切だが、こうしたきっちりとした主題のある映画への出演は、彼女たちのキャリアに必ずプラスになる。 とりわけ若いキャリスタ・フロックハートやキャメロン・ディアスなどには、有益だったと思う。 グレン・クローズの演技は光っており、冒頭の母親とのやり取りや電話を待つシーンなど、数少ない台詞を恐ろしいまでの演技できめていた。 エレインの揺れ動く心が、彼女の存在そして一挙一投足から伝わってくる。 見事な演技である。 また、インテリアや小物などの配置も、孤独をよく表現していた。 キャシーを演じたエイミー・ブレナマンも、盲目でありながら派手な妹との微妙な関係と、職業人として有能であり女性としての自信のなさを、上手くあらわしていた。 ホリー・ハンターが演じたレベッカの展開が、やや月並みであった。 5つの物語の中に、二人の盲目と一人のコビトを登場させ、初めての監督作品であるにもかかわらず、この監督はしたたかな演出を見せた。 「Men are from mars, woman are from venus」は他の映画にも使われていたが、この映画でも点字本に翻訳されており、この本は随分と広く読まれたのが判る。 レベッカにつきまとうナンシー(ペニー・アレン)のメイクが下手だったけれど、低予算映画だから目をつぶることにする。 1999年のアメリカ映画 |
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