タクミシネマ        ザ トゥルーマン ショー

☆☆ ザ  トゥルーマン  ショー  ピーター・ウィアー監督 

 ジム・キャリーが、トゥルーマンを演じる。
トゥルーマンは生まれたときから、いや生まれる前から監視され虚構の中に生きるように、運命づけられていた。
あるテレビ会社が、巨大なセットを作り、生まれたばかりの彼を養子にして、そのセットの中で育て始めたのである。

 トゥルーマンの人生が、セットの中で動いていることを、彼以外の人は全員が知っている。
彼以外は俳優たちがすべて仕事として、決められた役割を演じている。
そのセットがあまりにも巨大であるので、トゥルーマンはそれが実人生だと信じて疑わない。
当然だろう、生まれたときからその環境におり、学校から病院、バスなどの交通機関やテレビなどの放送など、通常に目にするものは全て揃っている。
ハードだけではない。
両親から親友や恋人まで、人間関係もすべて放送局が用意している。
信じるのは当然である。

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劇場パンフレットから

 人工の環境、本人だけはそれが実人生だとして生きている。
そうした環境に生まれ育ったトゥルーマンが、ある時奇妙だと気がつき、自力でその環境を脱出しようとするまでの展開を映画は見せる。
もちろん、話は荒唐無稽である。
しかし、この構想を考え出した人間は、実に凄い想像力の持ち主である。
いや、今までの映画製作の中から、自然に出てきた企画かも知れない。
この設定は同時に現代人は、セットの中で生かされているのだよと言う、批判にもなっている。

 ほとんどの映画は、セットをくむ。
そのセットの中で、人間の人生といったことを見せるのだが、映画は虚構の中で語られることは無前提の前提である。
そのセットは、映画の撮影が終われば、たちまち解体されてしまう。
セットで撮影して、人間を描こうとするなら、セットで人間を育てたらと思うことはそれほど遠くない。
映画が次の映画を生んでいる例かも知れない。

 この映画の主題は、セットというまったく人工の世界で育てられた人間が、最後にはそのセットを打ち破り、セットの外に出ていくというのだ。
セットの中はまるで温室のようであり、人間が獲得したいと思っていた環境はすべて用意されている。
温暖な気候、豊富な食べ物、保障された収入、愛してくれる両親、恵まれた友人関係、美しい恋人などなど。
何不自由ない環境に育つ彼だが、彼は自由を求めて、コントロールされた環境から脱出を試みる。

 テレビ側は、彼にセットから出られては放送が終わってしまうから、何とか彼をセットの中に閉じこめようと算段する。
それは小学校時代から始まっており、彼が将来の夢は未開地の探検だというと、学校の先生は彼に地球上にもはや未開地はないと答える。
まるで温室植物のように、セット内ですくすくと育つことを期待されながら、結局トゥルーマンはセットのバリヤーを打ち破って外に出る。
ここで人間に対する心底からの信頼が現れる。

 情報社会の今、観念だけが人間の人間たる所以になった。
それは一連のアメリカ映画が展開してきた。
純粋な愛情こそ人間を支える、という映画は最近の主流である。
純粋な愛情つまり観念は、放置されたらどう育つのか。
それに対する解答がこの映画である。
観念しか頼るものがなくて、人間が観念に頼れない。
これは絶対にあってはならないことである。
観念の自立性を確保しなければ、人間は今後自滅の道を進まざるを得ない。

 この映画は、自立とかそんなことをまったく教育されなくても、放っておかれても人間は自由を求め、自立するのだという確信的な宣言である。
その意味では極めて楽観的な、いかにもアメリカ的な楽観主義に満ちた映画である。
しかし、この立場をとらない限り、今後の展開はない。

 子供は誰に教えられたわけでもないのに、いつの間にか立ち上がって歩き始める。
誰に教えられたわけでもないのに、道具を使い始める。
そして言葉を使い始める。
こうした人間に根元的に刷り込まれた観念として、それが逆境であろうとも自由を求める姿勢を、人間の本質としたところにこの映画の先進性がある。
もちろん、この映画が前提とした性善説的な楽観主義は、共産主義が崩壊したから言えるのだろうし、犯罪が横行する昨今、誰もが肯首するわけではない。

 観念は社会性の産物であり、生得のものではないというのが、今までの常識だった。
しかし、この映画はチョムスキーの言語論を前提にしているようだ。
この映画は、観念自体は教えられなくても、未知を求めて自立していくという。
確かに地球を探検してきたのは、誰かに教えられたから冒険に乗り出したわけではない。
文明は拡大を内包しているのかも知れない。

 虚実が裏表であるといった映画は、今までにもあったし、想像するのはそんなに難しいことではない。
しかしこの映画のように、人生丸ごとをセットつまり虚の世界に置くことは、想像力の大変な飛躍が必要である。
その点でいくつか破綻するのは仕方ないことである。
たとえば、トゥルーマン以外は職業役者だとすれば、彼等にオフはないのか。
24時間にわたって、彼に接してない部門では三交代制が可能としても、彼の奥さん役をやっている女性は、奥さん役と言った仕事としてトゥルーマンとセックスをするのか。
交通事故など負の出来事が現実の社会ではあるが、テレビという虚の世界で怪我や事故を起こしても良いのか。
などなど疑問はつきないが、それらは不問にしても良い。

 この映画が主張する人間に対する本質的な信頼、これこそ今後確保していかなければならない。
人間はそのまま育てられれば、自由を求め、独立を指向するのだ。
これが今までの人間の歴史を振り返ったとき、導かれる結論である。
逆境にありながら、人類は進歩してきた。
よりよい生活を実現してきた。こうした人間に信頼を寄せることなくして、これからの展開はない。

 アメリカの映画は、主題を着実に前進させている。
その成果を見ることは嬉しいと同時に、何だ怖い感じすらする。
人間とはそんなに自立的なのだろうかとも思うので。
観念の自立とは恐ろしいことである。

1998年のアメリカ映画


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