タクミシネマ              クアトロ・ディアス

☆☆ クワトロ ディアス  ブルーノ・バレット監督 

 1969年9月4日に発生した、ブラジル駐在のアメリカ大使(アラン・アーキン)を誘拐して、逮捕されている政治犯の釈放を計った事件をもとに、この映画は作られている。
当時のブラジルは、クーデターにより軍事政権ができ、報道の自由をふくめ市民の権利が脅かされていた。

 政治犯と見れば逮捕し、拷問がまかり通っていた。
しかも、共産主義の恐怖から、当時のアメリカは軍事政権に肩入れしていた。
この映画の主人公フェルナンド(ペドロ・カルドーゾ)は、学生の街頭闘争に飽きたらず、武力闘争にかけるMR−8に入る。

 MR−8は、資金稼ぎのために銀行強盗をやり、次の作戦を練っていた。
政治的な存在をアピールするために、政治犯の釈放を求めてアメリカ大使を誘拐することを計画。
大使の釈放と引き替えに、15人の政治犯の解放を求め、それに成功する。
15人の政治犯はメキシコに降り立ったものの、当事者だった彼等は警察に追われる身となり、フェルナンドはやがて逮捕され拷問を受ける。

 1970年6月、今度はドイツの大使が誘拐され、40人の政治犯と交換される。
フェルナンドと恋人のマリア(フェルナンダ・トーレス)もその中に含まれて解放され、アルジェリアに亡命するところで映画は終わる。
1997年に製作された映画だから、その後の展開が字幕で説明されていた。
それによると、その後、軍事政権はすべての政治犯に恩赦を与え、その何年か後、選挙による民主的な政府が樹立されたという。

 最初に、共産党や非合法組織の素描がなかったので、ブラジルの政治状況が判りにくかった。
しかし、政治と個人・暴力と政治といった問題を、真摯に取り上げており、とても優れた映画にしあがっていた。
フェルナンドの個人的な目を通して事件を見ており、それが単なる記録になりがちなこの手の映画に1本の筋を入れ、政治の恐ろしさを充分に感じさせて、心理描写としても実に見応えがあった。

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劇場パンフレットから、解放されたmr−8

 ごく普通の生活をしている人間が、武力闘争に入る。
これは大変なことだ。
フェルナンドは友人の俳優と一緒に住んでいたが、その友人は武力闘争には反対である。
ある時、偶然に街角で出会うと、武力闘争をしている人間は軍事政権と同質だ、と彼に言われる。
これはこの映画の主題になっており、この映画は武力闘争に反対の立場をとっている。
軍事政権という暴力にMR−8という集団が、暴力で対置すればその内実は同質であり、結局暴力だけが問題を押し流すことになる。
しかし、それは問題の真の解決にはならないと映画は言う。

 MR−8のメンバーは組織の中では、上意下達の鉄の規律を要求される。
上官の言うことは天皇の命令だというのである。
たしかに、軍事作戦ではそうならざるを得ない。
軍に対置されるもの、それは武力でしかない。
ブラジルで軍事政権が出来たことは、武力つまり暴力での支配が行われたことであって、支配それ自体の中に暴力を許す芽が生まれているのだ。
ブラジル政府の軍事政権が、MR−8を生み出したのだ。
しかし、MR−8のなかにも暴力が蔓延することを、最年少の男の子に託して描いている。

 暴力が人間の神経を腐敗させていくことを、政府側の人間にも描いている。
拷問をする役人は不眠症になり、恋人からは彼の仕事ゆえに交際を拒否される。
政治状況を変えようとする若者達の情熱が、政府の人間達の心を打つのである。
しかし、役人は役人の立場で仕事として、拷問・捜査をしなければならない。
誰にも生活があるが、その役割を果たすなかで、人間性が歪んでいく。
暴力による支配は、実に効率が悪い。

 アメリカ大使の釈放期限を、MR−8は48時間と区切る。
48時間は長い。
その間に睡眠も食事もしなければならない。
そこには、生活があり、精神の動きが入り込んでくる。
フェルナンドとマリアの間に恋が芽生えるのも自然である。

 MR−8に誘拐・監禁された極限状態の中で、アメリカ大使とメンバーが見せた緊迫の演技は素晴らしかった。
どこまでが事実か判らないが、死の恐怖に直面しながらも、大使は人間としての威厳を崩さない。
失禁するが、それでも彼の存在が貶められることはない。
メンバーも大使を紳士として扱うし、大使もメンバーに温かい目を注ぐ。

 見せる映画としては、フェルナンドがMR−8に入ってから、誘拐作戦が成功するまでに大きな時間を割いているが、簡単ながらその結末にも触れている。
たしかに政治犯の15人は釈放されたけれど、状況は何も変わらなかった。
フェルナンドにしてもマリアにしても、何かを成し遂げた充実感より、官憲から追われ怯えて生活する日々である。
街には彼等の顔写真が貼られ、市民は不審な情報を警察に通報する。

 MR−8のメンバーに限らず、革命運動に身を投じるのは、中流階級のお坊っちゃん・お嬢さんたちだ。
生活にもまれ、苦労した人間は、革命運動など手を出さず、自分だけの人生を堅実に築き上げる生活者である。
観念に生きることが出きるのは、ある程度の金持ちだけである。
であるがゆえに、革命者たちに心理の揺れも生じるのだ。
それはこの映画でも、きちんと描かれている。

 革命側から映画を撮りながら、MR−8に感情移入しながら、暴力の無意味さを描くこの監督の力量は大したものである。
軍事政権を支持する人は少数だろう。
とりわけ知識人層では皆無と言っても言い。
つい軍事政権批判の映画を撮りたくなるだろう。
それは簡単なことだ。
しかも誰にでも受ける。
この映画は、軍事政権批判が主題ではないが、それは無前提の前提となっている。
MR−8の存在を肯定した上で、暴力を考えている。
味方の立場に立ちつつ、味方を批判する視点は、なかなかとれないものだ。

 この映画はアメリカでは決して出来ないだろう。
ここまでの状況が、アメリカにはないからではない。
貧困や貧富の差が、反体制運動を喚起するとしても、二者択一のアメリカ的発想では、政治が語れないのだ。
政治という何重にも折り畳まれた世界では、数値的に計算された楽天的な思考は通用しない。
政治とは人間臭く、しかも計量しにくいものだ。
それにしても、武力革命を育てる土壌は貧困である。
連合赤軍の事が思い出されたが、ブラジルと日本は経済状態が違うのだろう。
1997年のブラジル映画 


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