タクミシネマ         16歳の合衆国

☆☆ 16歳の合衆国   
マシュー・ライアン・ホーグ監督

 子供が子供を殺す。
しかも、殺された子供は、知能障害の子供だった。
我が国で起きた事件に、触発されたのかと思ったが、そうではない。
アメリカでも同じような事件が起きているのだろう。
情報社会化する中、同質な社会では同じような事件が、起きても不思議ではない。
16歳の合衆国 [DVD]
劇場パンフレットから

 売れっ子作家を父にもつリーランド(ライアン・ゴズリング)は、とても知的で聡明な子供だった。
父のアルバート(ケヴィン・スペイシー)は、アメリカには住めないという小説を書いて、ヨーロッパへと行ってしまった。
父親は1年に2回、航空券や小遣いを送ってきたが、彼は父親の元へ行ったことはなかった。

 ベッキー(ジェナ・マローン)という可愛い恋人ができる。
しかし、彼は恋人との人間関係に、のめり込むことができない。
彼女を愛していることは自覚しているが、それを言葉にすることに嘘臭さを感じてしまう。
いかにも現代的な繊細さをもった16歳である。
その彼が、ベッキーの弟ライアンを殺してしまう。
現代的な犯罪だけに、その背景はほとんど説明されない。


 少年院に収容されたリーランドは、心を開かなかった。
開かなかったと言うより、自分で自分の心がつかめなかったのだろう。
何か拙いことをやったという自覚はあっても、殺したこと自体が彼を責めることはない。
すべてが手応えを失って、雲散霧消する情報社会では、人の存在も軽く透明になる。
ここで命が何よりも大切だ、という倫理観は喪失する。

 リーランドの心理に興味を持ったのが、少年院で教師を務める作家志望のパール(ドン・チードル)だった。
パールは、リーランドの心をネタに小説を書こうとし、インタビューを始める。
表現の狂気を理解できないパールは、作家の資質に欠けたが、それでも少年院では知的な人間だった。
リーランドはパール相手に、自分の心を見つめる作業を始める。

 リーランドとパールのやりとりを縦軸に、様々な話題が絡んで映画は進む。
一つ一つの話題が、それなりに必然性があり、しかも台詞がとても含蓄に富んでいる。
監督自身が、少年院の教官を務めたことがあるらしい。
そこで出会った少年たちが、普通の少年だったことに驚いて、この映画を作ったようだ。

 人間こそ一番大切なものだ、という価値観が近代を開いた。
人間は平等だというのも、人間の命の重要性の別表現である。
この価値観があったからこそ、貴族や王といった生まれつきの高貴といった価値観を覆せた。
神様から支配を委嘱された高貴な人間を否定したので、革命が可能だったのだし、近代文明が花開いた。

 時代をさかのぼれば、神様を頂点にして、価値観のピラミッドができている。
神様に近いものほど高貴なのだ。
予言者は神の使いだから、重要な地位をもっていたし、
支配者は神から支配を授権されたので、重要な地位を占めていた。
聖職者が尊敬される構造は、イスラム諸国では今も変わらない。
しかし、近代に入るとき神が否定されると、価値のピラミッドも消失した。
聖職者も結婚して普通人になった。


 人間とは何か。常識に属するように思うかも知れないが、人間を定義するのは難しかった。
近代に入った時には、白人男性の市民のみが人間だった。
女性や子供はもちろん人間ではなかったし、外国人や有色人種も人間ではなかった。
そして、貧乏人は人間ではなかった。
ある程度の財産をもった白人男性だけが、人間として自立したのが近代だった。
その後、人間の形をしたものは、すべて人間だと見なされるようになりつつあるが、未成年者はいまだ人間ではない。 

 近代にはいるとき、神に象徴される価値の体系を否定したのだから、
既存の価値観の全面的な崩壊が起きた。
神が支配した時代は、人類の歴史と同じくらい長かった。
神の支配に代わる価値観は、簡単には形成できない。
そのうえ一度、価値観の相対性を知ってしまえば、もはや絶対は想像できない。
すべてが無限の相対性の中にある。
物が重さを失うように、人間も相対性のなかに投げ出される。

 リーランドがライアンを殺した後、自分の手をナイフで刺して、痛さを確認していたのは象徴的である。
殺すという観念と、人間存在は等価であり、命に特別の意味はない。
観念が自立してしまったので、観念が命じることは等価である。
人間と物のあいだに違いはない。
だから、「その日のことは覚えていない。
嘘じゃない、本当に覚えていない…」という台詞になる。

 通常の殺人は、物欲や怨恨といった物的な動機から起きる。
少年院に収容されている者の大半は、物的な動機による犯罪者である。
この動機は、人間存在の至高性を認めた上のものだから、既存の大人たちにも犯罪心理が理解できる。
しかし、この少年の殺人は、怨恨からでも物欲からでもない。
少年は人間の至高性を思考の範疇に入れていないから、なぜライアンを殺したのか、大人たちはまったく理解できない。

 白人の庶民が貴族たちを殺したとき、貴族たちも今の我々と同じように感じていたはずである。
神の序列以外を理解できなかったはずだから、
貴族たちは庶民の行動が理解できなかったであろう。
最初のうち、庶民の行動は狂気に見えただろうし、彼らの理解の限界を超えたとき、
庶民には「心に闇」があると考えたに違いない。
新たな時代には、既存の価値観では対応できない。
命がもっとも大切だと考える今の大人たちは、超等価な情報社会の価値観を理解できない。

 すべてが超等価な情報社会では、人間の命を至高だとみなす根拠がない。
人間の命が大切だというのも観念にすぎない。
すべての観念は等価であり、現実は観念によって説明されるとすれば、命を至高だと証明できない。
命を至高だと前提することは、そこで思考を停止させることである。
近代を越えようとする人間たちは、思考を停止しないので、いかなる前提条件も信じていない。

 神に逆らって絶対を失った人間は、相対の世界を彷徨わざるを得ない。
既成の価値観を身につけてしまった大人は、貴族と同様に状況を理解できない。
子供たちに担われた停止しない思考は、今後も未知の分野を切り開いていくだろう。
それが大人たちに心地よいとは、必ずしも保障されていない。
人間が人間であるがゆえに、子供は子供を殺すのである。


 この映画は、先端的な問題意識と格闘しており、
情報社会の認識論において、相当程度の結論に到達している。
我が国で同種の事件が起きたとき、洪水のように氾濫した言説のどれよりも、この映画を支える思考は卓越している。
透徹した思考が生まれた原因は、監督が殺人を犯した少年とのあいだに、何の違いも感じていないからだろう。
少年と監督は、相対の世界に彷徨う同質な人間だと知っている。

 高山文彦氏の「地獄の季節」などを見れば判るように、
我が国で、この種の事件がおきたときに発せられる言説は、自分とはまったく違う人間がおこした事件として論じられる。
論者は正常な価値観をもつが、少年は価値観を失った異常人と見なしている。
自分と犯罪者がまったく別種の人間だと、論者は無前提の認識に立っている。

 マスコミや大学に籍を置き、既存の価値体系にどっぷりと浸かった論者は、自分が少年と同種の生き物だとは、想像だにしていない。
自分が犯罪を犯す可能性を、まったく想像に入れていない。
論者は自分を考えることなく、安全な場所に立ったまま、異質な少年を解剖しようとする。
だから、人間存在に思考が届かない。

 この監督は少年と自分が、同質に人間だと認識している。
自分と同じ普通の少年が、殺人を犯しただけで、両者のあいだには違いがないと考えている。
自分も若かったら、この少年と同じように、殺人を犯したかも知れないと認識している。
だからこの監督は、少年の心を自分の心として、同質な領域で考えることができる。
思考の構造において、我が国の論者たちより、すでに時代を先んじている。
透徹した思考に敬意を表し、映画としての完成度をおいて、星2つ献上する。
2003年のアメリカ映画
(2004.08.20)  

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