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子供が子供を殺す。 しかも、殺された子供は、知能障害の子供だった。 我が国で起きた事件に、触発されたのかと思ったが、そうではない。 アメリカでも同じような事件が起きているのだろう。 情報社会化する中、同質な社会では同じような事件が、起きても不思議ではない。
売れっ子作家を父にもつリーランド(ライアン・ゴズリング)は、とても知的で聡明な子供だった。 父のアルバート(ケヴィン・スペイシー)は、アメリカには住めないという小説を書いて、ヨーロッパへと行ってしまった。 父親は1年に2回、航空券や小遣いを送ってきたが、彼は父親の元へ行ったことはなかった。 ベッキー(ジェナ・マローン)という可愛い恋人ができる。 しかし、彼は恋人との人間関係に、のめり込むことができない。 彼女を愛していることは自覚しているが、それを言葉にすることに嘘臭さを感じてしまう。 いかにも現代的な繊細さをもった16歳である。 その彼が、ベッキーの弟ライアンを殺してしまう。 現代的な犯罪だけに、その背景はほとんど説明されない。 開かなかったと言うより、自分で自分の心がつかめなかったのだろう。 何か拙いことをやったという自覚はあっても、殺したこと自体が彼を責めることはない。 すべてが手応えを失って、雲散霧消する情報社会では、人の存在も軽く透明になる。 ここで命が何よりも大切だ、という倫理観は喪失する。 リーランドの心理に興味を持ったのが、少年院で教師を務める作家志望のパール(ドン・チードル)だった。 パールは、リーランドの心をネタに小説を書こうとし、インタビューを始める。 表現の狂気を理解できないパールは、作家の資質に欠けたが、それでも少年院では知的な人間だった。 リーランドはパール相手に、自分の心を見つめる作業を始める。 リーランドとパールのやりとりを縦軸に、様々な話題が絡んで映画は進む。 一つ一つの話題が、それなりに必然性があり、しかも台詞がとても含蓄に富んでいる。 監督自身が、少年院の教官を務めたことがあるらしい。 そこで出会った少年たちが、普通の少年だったことに驚いて、この映画を作ったようだ。 人間こそ一番大切なものだ、という価値観が近代を開いた。 人間は平等だというのも、人間の命の重要性の別表現である。 この価値観があったからこそ、貴族や王といった生まれつきの高貴といった価値観を覆せた。 神様から支配を委嘱された高貴な人間を否定したので、革命が可能だったのだし、近代文明が花開いた。 時代をさかのぼれば、神様を頂点にして、価値観のピラミッドができている。 神様に近いものほど高貴なのだ。 予言者は神の使いだから、重要な地位をもっていたし、 支配者は神から支配を授権されたので、重要な地位を占めていた。 聖職者が尊敬される構造は、イスラム諸国では今も変わらない。 しかし、近代に入るとき神が否定されると、価値のピラミッドも消失した。 聖職者も結婚して普通人になった。 人間とは何か。常識に属するように思うかも知れないが、人間を定義するのは難しかった。 近代に入った時には、白人男性の市民のみが人間だった。 女性や子供はもちろん人間ではなかったし、外国人や有色人種も人間ではなかった。 そして、貧乏人は人間ではなかった。 ある程度の財産をもった白人男性だけが、人間として自立したのが近代だった。 その後、人間の形をしたものは、すべて人間だと見なされるようになりつつあるが、未成年者はいまだ人間ではない。 既存の価値観の全面的な崩壊が起きた。 神が支配した時代は、人類の歴史と同じくらい長かった。 神の支配に代わる価値観は、簡単には形成できない。 そのうえ一度、価値観の相対性を知ってしまえば、もはや絶対は想像できない。 すべてが無限の相対性の中にある。 物が重さを失うように、人間も相対性のなかに投げ出される。 リーランドがライアンを殺した後、自分の手をナイフで刺して、痛さを確認していたのは象徴的である。 殺すという観念と、人間存在は等価であり、命に特別の意味はない。 観念が自立してしまったので、観念が命じることは等価である。 人間と物のあいだに違いはない。 だから、「その日のことは覚えていない。 嘘じゃない、本当に覚えていない…」という台詞になる。 通常の殺人は、物欲や怨恨といった物的な動機から起きる。 少年院に収容されている者の大半は、物的な動機による犯罪者である。 この動機は、人間存在の至高性を認めた上のものだから、既存の大人たちにも犯罪心理が理解できる。 しかし、この少年の殺人は、怨恨からでも物欲からでもない。 少年は人間の至高性を思考の範疇に入れていないから、なぜライアンを殺したのか、大人たちはまったく理解できない。 白人の庶民が貴族たちを殺したとき、貴族たちも今の我々と同じように感じていたはずである。 神の序列以外を理解できなかったはずだから、 貴族たちは庶民の行動が理解できなかったであろう。 最初のうち、庶民の行動は狂気に見えただろうし、彼らの理解の限界を超えたとき、 庶民には「心に闇」があると考えたに違いない。 新たな時代には、既存の価値観では対応できない。 命がもっとも大切だと考える今の大人たちは、超等価な情報社会の価値観を理解できない。 すべてが超等価な情報社会では、人間の命を至高だとみなす根拠がない。 人間の命が大切だというのも観念にすぎない。 すべての観念は等価であり、現実は観念によって説明されるとすれば、命を至高だと証明できない。 命を至高だと前提することは、そこで思考を停止させることである。 近代を越えようとする人間たちは、思考を停止しないので、いかなる前提条件も信じていない。 神に逆らって絶対を失った人間は、相対の世界を彷徨わざるを得ない。 既成の価値観を身につけてしまった大人は、貴族と同様に状況を理解できない。 子供たちに担われた停止しない思考は、今後も未知の分野を切り開いていくだろう。 それが大人たちに心地よいとは、必ずしも保障されていない。 人間が人間であるがゆえに、子供は子供を殺すのである。 情報社会の認識論において、相当程度の結論に到達している。 我が国で同種の事件が起きたとき、洪水のように氾濫した言説のどれよりも、この映画を支える思考は卓越している。 透徹した思考が生まれた原因は、監督が殺人を犯した少年とのあいだに、何の違いも感じていないからだろう。 少年と監督は、相対の世界に彷徨う同質な人間だと知っている。 高山文彦氏の「地獄の季節」などを見れば判るように、 我が国で、この種の事件がおきたときに発せられる言説は、自分とはまったく違う人間がおこした事件として論じられる。 論者は正常な価値観をもつが、少年は価値観を失った異常人と見なしている。 自分と犯罪者がまったく別種の人間だと、論者は無前提の認識に立っている。 マスコミや大学に籍を置き、既存の価値体系にどっぷりと浸かった論者は、自分が少年と同種の生き物だとは、想像だにしていない。 自分が犯罪を犯す可能性を、まったく想像に入れていない。 論者は自分を考えることなく、安全な場所に立ったまま、異質な少年を解剖しようとする。 だから、人間存在に思考が届かない。 この監督は少年と自分が、同質に人間だと認識している。 自分と同じ普通の少年が、殺人を犯しただけで、両者のあいだには違いがないと考えている。 自分も若かったら、この少年と同じように、殺人を犯したかも知れないと認識している。 だからこの監督は、少年の心を自分の心として、同質な領域で考えることができる。 思考の構造において、我が国の論者たちより、すでに時代を先んじている。 透徹した思考に敬意を表し、映画としての完成度をおいて、星2つ献上する。 2003年のアメリカ映画 (2004.08.20) |
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