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情報社会化が人間を追いつめるという主題だが、この映画は今までの地平をぬけでたように思う。 ややパターン化した画面が多く、映画としての完成度は必ずしも高くはないが、今年初めての二つ星をつける。 工業社会に入るときつまり近代の入り口で、精神病が病気として認知され、精神病者を精神病院に収容するようになったとは、M・フーコーの指摘である。 前近代にあっては、精神病であるか否かは病気か否かという区別ではなく、物の怪がとりついたとか、神の使者として扱われたという。 だから、精神的に尋常ではない人を、危険人物として特別視することは少なかったらしい。 当時は肉体労働が優位していたので、肉体的な劣者を差別の対象にしたが、精神的なものは評価の対象になりにくかったのだろう。 だから同時に、反対も真実になっており、天才的な頭脳に対しても、特別な評価がなかった。 日常生活を営めないほどの精神疾患者は、生活から排除されただろうが、多少の精神障害があっても自分の口を糊することはできた。 職人にしても農業にしても、身体さえ丈夫であれば仕事はあった。 それが頭脳労働へと重心が移ってくると、精神障害者は仕事の場を失っていく。 情報社会化が進めば進むほど、精神への問いかけは強くなり、身体よりも頭脳の優秀さへと評価の軸がうつっていく。 そのため、精神障害者の生きる道は狭まっていくと同時に、精神障害を病気とみなす風潮が強くなっていく。
この映画は、アメリカが不況だった1980年代に、優雅な生活を満喫したヤッピーの生活をもとにしている。 ハーバード・ビジネス・スクールを卒業し、P&Pという証券会社に就職した27才のパトリック(クリスチャン・ベール)は、有能な仕事人間だった。 もちろん友人たちとの遊びにも積極的で、友人たちとの見栄のはりあいにも精をだしていた。 ヤッピーたちは、自分のオリジナルな名刺をつくり、そのデザインの洗練さを競いあっていた。 そして、トレンディなレストランにいくのも忘れない。 しかし、自分の中になんだか得体の知れない欲求が、芽ばえ始めていた。 それは情報合戦を仕事とする、つまり無形のものを相手に仕事する手応えのなさが、何らかの手応えを求めていたのだった。 多くの人は、その手応えをスポーツに求めたり、狩猟に求めたりする。 彼の場合は、破壊欲へと向かい始めたのである。 しかもまずいことに、それは人体を傷つけ、人を殺すという、絶対に許されない欲求だった。 頭脳労働から解放されるとき、人は何かに安らぎを求める。 オタクと呼ばれるかもしれないが、他人とは違う奇異な趣味に走ることもある。 オタクと呼ばれようとも、危険思想をもとうとも、他人に危害を加えないかぎり問題はない。 男性が女装をしてもかまわないし、同性を愛しても性別を転換しても良い。 しかし戦前には、思想自体が刑罰の対象になり、天皇を殺せといったら、それだけで不敬罪になった。 戦前と違って今日の社会は、危険思想をもっていても、その思想を実行しなければ、罪に問われることはない。 前近代的な中国では、政府のトップを批判したら、それだけで犯罪になる。 いまでは、考えることつまり観念と、現実が別次元のこととして認知されて、現実面でだけ評価される。 パトリックは友人のポール(ジャレッド・レト)を、斧でめった打ちにして殺す。 殺人の快感は、彼を驚喜させた。 ますます殺人欲が高まり、つぎつぎと殺人をおかしていく。 本人は自分の欲求が許されないものであることを知っている。 だから、何とか自分の欲求を抑えようとする。 危険な自分と冷静な自分の相克にも悩む。 ポール殺人はなぜか公にならず、ポールの家が私立探偵を雇って、犯人探しをするだけである。 私立探偵のキンボール(ウィリアム・デフォー)は、パトリックのもとにも調査にくる。 しかし、ポールはロンドンにいたと言って、彼は最後に笑って帰ってしまう。 パトリックは何人殺しても、逮捕されない。 弁護士に告白するが、弁護士は冗談としてしか受け取らない。 殺人の当然の帰結である罪を問う構造がない。 今や殺人すらも手応えを失っている。 観念が蔓延し、殺人という異常な嗜好にまみれるなかで、パトリックの秘書ジーン(クロエ・セヴィニー)が、きわめて常識的な人間として描かれる。 彼女こそ、平静をあらわす女性の象徴であり、肯定もされるし否定もされる存在である。 観念をあらわすパトリックの対極に存在する性である。 またパトリックが、二人の女性とセックスするシーンがでてくるが、これも観念と手応えの転倒としてみれば、簡単に了解がつく。 パトリックにとって、セックスは関係性の確認ではなく、自分の身体を作るエクササイズと、まったく同じものに過ぎない。 彼は自己完結している。 「ファイト クラブ」が肉体と頭脳の分離から、肉体を痛めつけることへによって、手応えを回復しようとした。 この映画は、殺人でそれに応えようとする。 しかし、いまや最悪の犯罪である殺人すら、瞬間的な快感をもたらすだけである。 殺人がずっしりとした手応えを体感させない。 すべてが軽くなって浮遊し、何も手応えを与えないという、この映画の主題は恐ろしいものである。 「マルコヴィッチの穴」など、観念が自立する映画が続いてきたが、この映画はより先へと進んだ。 おそらくこの隘路を開くのは、他者との関係性という視点だろう。 驚くべきことに、この映画はメアリー・ハロンという女性によって監督された。 女性は一般に観念的な思考に疎いとされる。 情緒に流れやすいのが女性の特徴といわれ、女性のフェミニストも論理的な思考をする人は少なかった。 それがこの映画である。 今や女性も、完全に観念の世界をうごめく生き物となり、情報社会の表裏をしっかりと体験させられている。 メアリー・ハロンは、「I shot andy warhol」という映画をとっており、フェミニズムの軌跡をきちんと跡づけている。 男性以上に観念に拘泥する女性監督。 アメリカのフェミニズムがどんな様相なのか、よくわかる。 2000年アメリカ映画 |
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