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1945年の初め、中国・華北の田舎の村での話である。 ある晩、百姓のマー(姜文:チアン・ウェン)が、近所の後家さんユィアル(姜鴻波:チアン・ホンポー)とよろしくやっているとき、私だと名乗る男がやってきた。 私はマーにピストルを突きつけ、5日後に取りに来るから尋問をしておけと言い残して、2つの麻袋を預けていった。 麻袋のなかには、日本兵の花屋小三郎(香川照之)と、中国人の通訳トン(袁丁:ユエン・ティン)が入っていた。
当時の中国は、日本軍によって8年来占領されており、この村にも日本兵がやってきていた。 そんな中で日本兵をかくまうのは、自殺行為である。 2人に間違いがあったら、村中を皆殺しだといわれたので、村人は鳩首して大騒ぎとなる。 日本軍に引き渡そうか、しかし、5日後に引き取りに来たときには何という。 村人たちは困惑する。 5日間だというので、匿うことにした。 貧乏な村でのこと、食べるものさえ満足ではないのに、花屋は勝手なことばかりわめき散らす。 5日がすぎても、とうとう私は現れなかった。 半年にわたって村人たちは花屋を匿い続けるが、とうとう忍耐も切れた。 日本軍に引き渡しても、大丈夫だろうと考えた。 丁重なもてなしをしたので、穀物を村人に渡すと花屋と契約したうえで、彼を日本軍に引き渡す。 突然現れた花屋に、いまさら生きて帰ってきたのは何事だ、と日本軍は激怒する。 このあたりの描写は、実に上手い。 生きて帰った人間よりも、自分たちの処理したことのメンツを、大切にする日本人の性格をよくつかんでいる。 花屋は徹底的にリンチされるが、契約書を見た酒塚隊長(澤田謙也)は態度を急変した。 日本軍は契約を守るという。 2台という約束の穀物を、6台にして渡す。 そして、その晩は、日本軍がマーの村へ出かけて、日中合同の交歓会を開いた。 ここまではよかった。交歓会も宴たけなわというとき、酒塚隊長は花屋の処刑を命ずる。 そして、マーがユィアルを実家の村に迎えにいって不在だったのを、援軍を呼びにいったのだろうと決めつけ、村に火を放ち村人たちを虐殺する。 村へと戻る船の上で、燃えさかる火をマーは呆然と見るだけだった。 8月の戦争終結で、日本軍は捕虜となる。 村人たちを殺した日本兵も捕虜である。 捕虜たちは命を保証され、無事に生活を楽しんでいる。 マーは密かに復讐の機会をねらう。 何人かに傷を負わせたが、酒塚隊長にも花屋にも届かなかった。 しかし、戦争終結後の個人的な報復は許されない。 中国軍の命令で、捕虜に処刑させる。 マーは酒塚隊長の見守るなか、花屋によって斬首される。 それにしても日本軍をよく観察している。 すぐ死ぬとか、殺せと口にするくせに、実際には臆病であること。 大声でしゃべること。 宴会での日本人独特の騒ぎ方。 行方不明者の生還を喜ばないこと。 乱暴な花屋が、敵である村人の親切に改悛すること。 契約という形式を守りながら、契約の精神は守らないこと。 現代の日本人とは少し違うかもしれないが、戦中までの日本人像をじつによく描いている。 冒頭のマーとユィアルのからみから、私の侵入へと観客の興味を一気に引き寄せる。 その後のゆっくりした展開。 このままでは終わらない、何かありそうだと、胸が苦しくなるほどの緊迫感。 小さな起伏を作りながら、話を終盤へとつなげる。 意外に日本軍は話がわかると、思いかけたときのどんでん返し。 そして、中国軍による中国人の処刑。 物語の素晴らしい展開である。 死に面した時の人間行動という、厳しい主題をコミカルに描くのは、正攻法である。 モノクロの画面が、コミカルな展開とよくあっている。 この映画はカラーフィルムのモノクロ処理ではなく、モノクロ・フィルムを使っているだろう。 しかも最後に、ちょっとだけカラーを使っているが、それもよく効いている。 描写のスタイルは、やや古いリアリズムではあるが、人間を見つめる長い目をもっている。 「クワトロ・ディアス」という優れたブラジル映画があるが、抗争が続いてきた地域の人たちは、視線が長い。 「イースト・ウエスト」もそうだった。 近代以前にも人間は生きており、実は近代以前のほうがはるかに長い。 人間の普遍性は、むしろ前近代にあったとさえ言える。 近代はたかだか500年である。 しかも本当に近代人が誕生したのは、おそらく第二次大戦後だろう。 それもアメリカでだ。 だから、アメリカ映画は近代人の先鋭化を描くが、人間を見る目が現在から将来を向いている。 時代を切りひらくことには真剣だが、新たな時代が人間の普遍かどうかは、アメリカ映画では保証の限りではない。 こうした長い視線の映画は、決してアメリカでは生まれない。 登場するのがたまたま日本軍だったに過ぎない。 負け戦に日本人の性格がからんだだけではなく、マーの不在によって、村人が疑われても仕方ない。 抗日ゲリラに騙されたこともあったろう。 善人そうに見える人が、抗日戦線を闘ったのだ。 それが戦争である。この映画は状況の不条理を描いている。 人間の本質を考えるとき、舞台設定をなしには不可能である。 舞台になったのが1945年当時の中国であったとすれば、描かれるのは中国人と日本軍になるのは必然である。 日本人の狡猾さや日本軍の残酷さを、この映画に見るべきではない。 この映画を見て、我が国が批判されたと感じるのは、事実と観念を切り離せないものだ。 フェミニズムへの批判を、女性である自分が批判されているように感じる心性と同じである。 日本人はこの映画を、心穏やかに見ることができなのは事実だが、主題という観念を見るべきである。 するとこの作品が、きわめて優れた映画だと気づくであろう。 優しいまなざしと事実を冷徹にみることは、充分に両立すると、この映画は示している。 長い視線と暖かいまなざしをもったこの映画に、今年初めて星2つを献呈する。 2000年の中国映画 |
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