タクミシネマ    それでもボクはやってない

☆☆ それでもボクはやってない
  周防 正行監督

 主題も明確で、脚本もよく練られている。
緊張感を保った画面、物語の展開も論理的で、言わんとするところを充分に伝えている。
何よりも良いのは、刑事裁判批判という主題が、はっきりしていることだ。
主人公を独身のフリーターに設定したので、家庭事情を描かずにすみ、主題の表現に全力を傾注できている。
日本の映画に、星を2つ献上できるのは、とても嬉しい。
この映画は、ひょっとすると来年のオスカー(外国映画賞)を取るかも知れない。


 起訴されたら最後、有罪になる確率が99.9%である。
周知のことであるが、我が国の刑事裁判制度は、世界的に見てきわめて異常である。
我が国では、それに異常感を持たないが、「アメリカ人のみた日本の検察制度」では充分に批判されていた。
この映画は、痴漢事件を題材にして、冤罪を生むわが国の刑事裁判を、根底的に批判し尽くしている。

 映画は娯楽であるが、どんな映画にも必ず訴える主題がある。
最近の我が国の映画は、主題の訴求力において、アメリカ映画から決定的に劣っていた。
しかし、きちんと構想を練って丁寧に作れば、日本人も優れた映画を作ることができることが証明された。
最近の我が国の映画には、何度も何度も裏切られてきたので、日本人も映画を撮れることを確認できたことが、とても嬉しい。 

 26歳のフリーターの男性、金子徹平(加瀬亮)が、面接試験を受けようと朝の電車に乗った。
乗車率は250%と混雑しており、彼は駅員さんに押されて、やっと電車に乗った。
しかし、女子中学生に痴漢と間違われて、下車すると駅事務室に連れて行かれる。
目撃者の女性が、彼は痴漢ではないと言うが、それは無視されてしまう。

 駅事務室から警察へ。
あとは何を言っても、犯人扱いである。
彼はやってないと、一貫して否定するが、状況は悪い方へと一直線に進んでいく。
刑事調書でも否認、検事調書でも否認。
3泊4日の勾留から、まず10日の勾留延長。
そして、再度の10日の勾留延長。
結局、保釈されたのは3ヶ月後だった。
まず、こんなに長い間にわたって、被疑者を勾留する制度があきれる。

 先進国の勾留期間は、せいぜいが2日から3日である。
その間に、起訴するかどうか決める。
保釈後は在宅のまま、裁判所にかようことになる。
しかし、我が国では否認している限り、保釈は難しい。
反対に、犯行を認めてしまえば、簡単に示談になって釈放される。
そのため、捜査員たちは自白を強要する。
刑事裁判制度を解説しても仕方ないが、この映画は問題点を克明に、しかもややユーモアをまじえて描いていく。

 被疑者の犯行を検察官が立証して、初めて有罪になるはずなのだが、我が国では<やっていない>ことを、被疑者が立証しないと有罪になる。
本来、有罪であることを合理的な疑いを入れない程度に、検察官が立証しなければならないのに、無罪であることを被告人が立証しなければならい。
しかも、身柄は拘束されたまま、証拠は検察が握って、検察に都合の良い証拠しかださない。
有罪の立証より、無罪の立証のほうが格段に難しい。

 99.9%の有罪率は、我が国の刑事司法を無力化してしまった。
有罪で当たり前であるため、裁判官がものを考えなくなった。
万が一無罪になれば、弁護士は大手柄である。
この背景には、検察の起訴権独占があるのだが、99.9%の有罪率では裁判ではない。
この映画は、いっさい音楽を入れずに、畳みかけるように画面をつなぎ、緊張感を持続している。


 製作者たちは刑務所を初め、裁判制度をよく調べている。
最近の留置場は明るくなったようだが、それでも被疑者を動物のように扱うのは変わっていない。
外国の留置場も映画にでるが、人権を考慮することにおいて、我が国とは大きな違いがある。
我が国の刑務所が、舞台になった映画に「うなぎ」があったが、
デッド マン ウォーキング」「アメリカン・ヒストリー x」「ホワイト オランダー」「ラッキー ブレイク」など海外の刑務所とはずいぶんと違う。
刑務所と留置場では違うかもしれないが、捜査機関が人間を扱うことにかけては違いがないだろう。

 我が国の多くの映画は、感情に訴えて共感を得ようとするが、感情への訴えは一種の宗教を共有せよと言うことであり、反論を許さない。
この映画が優れているのは、感情に訴えてお涙を誘うのではなく、事実を積み重ねて論理的に展開する点だ。
そのため、外国人が見ても、この映画の主題はよく判るだろう。
そして、我が国の刑事裁判が、まるでファッシズムの国のそれであるかのような印象を受けるに違いない。

 この映画の美点は、多くの人を登場させている場面で、全員が演技をしていることだ。
台詞のない人も、きちんと演技している。
また、主人公の金子を演じた加瀬亮がはまり役で、実に自然だった。
そして、金子の母親役をやった、もたいまさこが上手かった。
ただし、全員が上手いわけではなく、弁護士を演じた役所広司はいつも同じ演技だった。
新人弁護士を演じた瀬戸朝香は、お世辞にも上手いとは言えなかった。
裁判所での公判のカメラは固定され、それ以外の場所では、カメラが動いていた。これもよく効いていた。


 ところで、フェミニズムが誕生した先進国では、フェミニズムは女性解放の思想、女性が自由を獲得する運動と捉えられた。
が、フェミニズムが日本へ入ってくるとき、弱き女性を保護する思想として享受された。
社会的な劣位におかれた女性は弱者だから、弱者保護こそフェミニズムの主張というわけだ。
しかし、自由や解放を求めるのと、保護を求めるのでは、天地ほども違う。

 自由を求めることは、既存の常識と衝突することである。
自由を求めるここでは、女性が自立を指向する。
しかし、保護を求めるのでは、自立よりも弱者であることを一層強める。
保護を求めると、弱者である地位を固定しさえする。
専業主婦を守るには、保護を求める運動が最適だったが、職場へと進出する女性を擁護するには、保護よりも自由への旅立ちが必要だった。
だから我が国のフェミニズムは、働く女性から見捨てられたのだ。

 自由への運動では、体制を作っているのが男性だから、男性批判が登場する。
しかし、保護を要求する運動では、女性であることに固執することになる。
我が国のフェミニズムでは、女性は女性であるままで、女性が人間へと自立する道は永遠に来ない。
ヒューマニズムは男女に共有されているのに、フェミニズムが男女に共有されず、女性だけの特権と化してしまった。
フェミニズムによって、男女の違いがますます固定されてしまった。

 痴漢の被害を名乗りでるのは、恥ずかしいことだとされているから、この映画でも官憲は被害女性を保護しようとする。
しかし、権力側は保護を与えることには、何の痛痒もない。
むしろプライバシーの配慮という名目で、権力は情報を独占できるのだから、積極的に保護しさえする。
その結果、痴漢被害にあうことも、恥ずかしいことに固定されていく。

 痴漢冤罪事件は、我が国の刑事裁判制度の欠陥と、我が国のフェミニズムが相まって生み出したものだ。
自由からの逃走」で言われるごとく、<自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求める>のが、我が国のフェミニズムである。
この映画ではフェミニズムには触れていなかったが、我が国のフェミニズムは、明らかにファッシズムの露払いをつとめている。

 我が国のフェミニズム批判はともかく、この映画のすばらしさに、星を2つ献上できる幸福を感謝したい。 2007年の日本映画
  (2007.1.30)

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