タクミシネマ                  ジャック

☆☆ ジャック    フランシス・コッポラ監督

 主題の志しの高さに、ただもう脱帽である。
この映画でフランシス・コッポラ監督は、新たな哲学の創出を試みている。
普通の人より四倍も早く成長する人間ジャック(ロビン・ウイリアムス)の話しである。
妊娠2ヶ月だが正常な赤ちゃんとして生まれ、10才の時には40才の体になっていた。
しかし知能は10才、ジャックは典型的な知恵遅れである。
外見として見える肉体が彼か、その頭脳が本物の彼なのか。

 ジャックは学校にはいかずに、特別な子供として、家庭教師について家庭のなかで暮らしていた。
近所の子供たちはジャックがいることを知らなかったが、ある時ジャックがひっそりと生活しているのを知る。
ちょうどその時、家庭教師がジャックを学校へやったらどうかと両親にすすめる。
両親とりわけ母親は、それまで辛いめにあってきたので、ジャックを学校へ通わすと、ジャックがいじめられる。
学校なんてとんでもないという。
しかし、とにかく学校へいくことになる。

 学校は彼を暖かく迎え入れてくれたが、子供たちはジャックに馴染めない。
当初は、校庭で一人ひっそりとしていた。
やがてジャックに友達ができ、それからは外見なんて関係ない。
一度仲間になってしまえば、友達たちは何のわだかまりもなく、同じ年令の友達として付き合い始めた。

 この映画は、子供の心をもった大人といった、子供の純真さを主題としたものではない。
外見=肉体と内容=頭脳が分離したとき、その本質は内容にあるというのが主題である。
この内容と形式の分離という主題は、ゲイや女性の台頭によって核家族が崩れ、同性の結婚すら認められるようになった今日の課題である。
映画は言う、肉体的なもしくは形式的な制度や外見に、ことの本質があるのではない。
そうした制度や外見を支える中身や精神こそ、大切にせねばならないと訴える。
そしてもちろん、誰のどんな精神も平等であり、同じように大切にしようと訴える。

 生まれて10年間の生活で、40才の風貌というのは、確かに異常である。
しかし、肉体的な特徴を、異常といったらきりがない。
白人からみれば黒人は異常だし、男性からみれば女性は異常である。
人間には様々な外見上の違いがある。
人間はまず外見からその人の印象を作る。
それは仕方ないが、その印象がいつまでも訂正されずに、印象のままで留まるとき、真実は見えなくる。

 農耕社会では、形式と内容が一致していた。
形式が内容を支えたので、形式を大切にすることによって、内容を確保しようとした。
情報社会を前にして、形式は必ずしも内実を表現しなくなった。
例えば言語は、物や事を指し示すと考えられていたが、指し示す物や事と言葉のあいだには、架橋できないくらいに離れていることが明らかになった。
コンピューターの根底を支える機械言語は、現実的な実態をもたなくても、それだけで充分に言語たり得る。
電気的なオン・オフが、意味をもつのである。
ここで、形式と内実の分離が始まった。
もはや形式を重んじることは、内容を大切にすることではなくなった。

 この映画は情報社会の到来を、はっきりと見据えている。
子供を対象にしたおとぎ話のような体裁をとりながら、哲学的な主題を非常に平明に、しかも先取的に展開している。
10才ですでに40才のジャックは、20才で80才である。
学校を卒業する年令になっても、その後いくらも生きてはいけない。
それでも、学校へいく意味はあるのか。
学ぶ意味はあるのかと映画は問う。
それでも意味はある。
人間は孤立して生きることはできない。
友達や仲間が必要なのだ。
生を楽しむことに意味があるのだと、この映画は答える。

 情報社会では、自然が与えてくれる回答が人間社会を支えなくなる。
すべて人間が答えを見つけなければ、生活ができなくなる。
そうした社会に、何をもっとも大切な価値とするのか、そうした問いにこの映画は答えようとする。
この映画は、形式ではなく内実だとまでは答えをだした。
どんな内容が大切なのか、それに一つの解答をだすこと事態が誤りである。
ある考えを正解と決めることはファッシズムだから、この映画もそこから先の価値判断には踏み込んではない。
ただ平等を訴えるのみである。

 これから価値判断を求められるとき、この映画のように形式と内実の対立を押さえることは必携である。
そして内容を大切にすることは自明である。
そのなかで、個々別々に具体的な判断をする以外にはないが、この映画のような問題意識が、何度も何度も繰りかえし語られながら、一般解を作っていく。

 「バードケージ」が、家庭や結婚の一般解を作ったとすれば、この映画は人間そのものに対する一般解への、新たな第一歩である。
子供、大人など様々な人間を、すべて扱える理念の創出にむけた営みの一つがこの映画である。
難解な体裁をとって、難しそうにみせるスタイルとは無縁なこの映画は、今までの映画とはまったく違う新たな哲学を作ろうとした。
家族より広い個人なる概念の確立を目指している。
成人した男女の対なる愛情の問題を越えている。
ジャックという異常な子供の設定により、家族論が人間論へと転化する契機をつかんでいる。
障害者は、健常者のために存在する。
純粋な愛情の誕生である。

 映画を作るのには大金がかかると思われるが、この映画にはお金もかかっていない。
ジャックを演じたロビン・ウイリアムスを除けば、有名な俳優もでていない。
しかし、雲のはやい動きでジャックの成長の早さを比喩、蝶の重さで木の上の家が壊れるシーン、卒業式にはジャックにも妹がいる、子役と卒業式での役者がよく似ていること等々、細かいところまで目が届いている。
アメリカ映画では毎度のことながら、子役がほんとうに上手い。
1996年アメリカ映画。


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