タクミシネマ        V フォー・ヴァンデッタ

☆☆ V フォー・ヴァンデッタ
 ジェイムズ・マクティーグ監督

 現代の様々なエピソードから、豊かな着想力を広げて、情報社会の物語を創りだしている。
主人公(ヒューゴ・ウィービング)がマスクを使っている点に、ちょっと引っかかるものがあるが、観念が自立するという主題は、いかにも今日的である。
着想といい展開といい、優れた構想力に敬服する。

Vフォー・ヴェンデッタ [DVD]
公式サイトから

 ナチの収容所、我が国の地下鉄サリン事件、9.11、ブッシュのイラク政策と国内政治などなど、衆目に新たな事件を使いながら、17世紀の革命家がとなえた理念を、丹念に追っている。
冒頭で、その革命家が吊し首にされるところで、政府を監視しなければならない、とのメッセージがうたわれる。

 それから時代は飛んで、アメリカが荒廃しきった近未来のイギリスに移る。
ブッシュ批判が露骨なので、アメリカに舞台設定ができなかったのだろう。
「民衆は政府を恐れてはならない。
政府こそ民衆を恐れるべきだ」という、知的な遊びにあふれるこの映画は、ややレトロな独特の美意識に貫かれている。

 テロの恐怖に怯えた人々は、政府に強大な権力を与えた結果、イギリスはファッシィズムの支配する国になっていた。
そこへ、かつての革命家の理念を体現したが登場する。
の登場の仕方はまるで、怪傑ゾロとかバットマンといった小児的な展開だが、娯楽作品とすれば充分に許されるだろう。

 は抑圧と暴政で支配する政府への反抗を訴え、まず裁判所を爆破してみせる。
しかし、政府の反撃も素早い。
次には放送局を占拠して、テレビジャックする。
は希望と勇気を失った国民に歯がゆくてならない。
11月5日に決起せよと呼びかけ、の捜査を担当するフィンチ警視(スティーブン・レイ)を出し抜きながら、つぎつぎと手を打っていく。

 これだけでは娯楽としての映画に、膨らみが欠ける。
をめぐる女性として、若いイヴィー(ナタリー・ポートマン)が登場して、物語に複雑さを加えていく。
イヴィーはに、危ないところ助けられはしたが、けっして彼の部下になったわけではない。
現代女性の美点の一つとして、彼女は旺盛な自立心をもっており、エキセントリックなには距離をとっている。

 は要人の暗殺をすすめるので、身辺への捜査が伸びてくる。
イヴィーも徐々に巻き込まれていく。
とうとう彼女は公安に逮捕されて、の居場所を明かすように拷問にかけられる。
イヴィーは通常の人間であり、普通に恐怖心をもっている。
しかし、彼女は拷問に耐え抜いた。
恐怖心をのり越えたところで、逮捕や拷問はの芝居だったとわかる。
激怒するイヴィーだが、とうとう11月5日が来てしまった。


 この映画の主題は、観念を純粋に自立させようとするところにある。
情報社会では、すべての物質から重さがなくなり、観念が現実社会を支配するのだが、観念を解放するためには、形式や物質が桎梏となる。
確立された形式や制度が、自由な発想を引き出す邪魔をする。
観念は、内容そのものとして表出されなければならず、いかなる形式も自由な発想には害悪である。
と、この映画は訴える。

 前近代にあっては、形式を整えることによって、人間関係を維持しようとした。
身分的な上下の規律を守ることが、円満な支配につながり、それが人々の幸福に役立った。
土地という生産手段の拘束から、逃れることができなかった時代には、
形式を大切にすることが人々の幸福を約束した。
しかし、近代へはいるときには、内実が形式を打ち破って、新たな社会を生み出した。

 天与の支配者だった王様が殺され、人間という抽象的な観念を生み出した。
この抽象的人間は、歴史上初めて、身分制を否定して、全員が平等だといったのである。
現実の人間ではなく、観念としての人間を想定し、観念としての人間が平等なのである。
我が国では、いまだに現実の人間と観念としての人間が、分離していない。
そのため、この映画の言うところは、半分も理解されないだろう。

 近代工業社会は、肉体労働から完全に分離できなかったので、観念の自立も中途で止まってしまった。
しかし、情報社会の暁光は、頭脳の働きこそ人間の可能性を広げるものだと、人々に認識させた。
そこで観念の自立が可能になり、反対に形式は観念を拘束するものとして、認知され始めたのである。

 西洋諸国において、男女関係は法律婚から離れ、同棲といった事実婚へと変化した。
人間の愛情=観念は、結婚という形式に守られるのではなく、結婚という形式が愛情の醇化を阻害すると考えたから、法律婚という形式を捨てたのだ。
つまり純粋な愛情こそ大切なので、愛情をより大切にするためには、法律婚という形式があってはならない。
純粋な愛情の中で私生児を生む。
それが西洋人たちの到達した地平である。


 11月5日がやってきて、映画の最後には群衆が、国会議事堂を包囲する。
そのときには軍隊も群衆に銃口を向けることはできない。
政府は転覆できたのだから、ここで国会議事堂を爆破する必要はもうなくなった。
しかし、イヴィーはの遺体ともに爆弾を積んだ地下鉄を、国会議事堂へとむかわせる。
そして、大音響とともに、国会議事堂が爆破されていく。

 希望や幸福とか自由といった観念は、制度を媒介して社会的に実現される。
その保証をするのが政治であるとすれば、国会議事堂には何の咎もない。
建物はただの器に過ぎないはずである。
しかし、情報社会の思考はそうは考えない。
観念は純粋に屹立する。
形式や制度があるかぎり、自由な観念は飛翔できない。
国会議事堂の存在が、自由という観念を束縛するのだ。
男女関係から、法律婚という形式を捨てたように、国会議事堂という形式を否定してみせる必要があった。

 形式から完全に離れた観念などありえないし、観念自体が形式を生み出してしまうのは事実である。
しかし、つねに創造を求める観念は、いつも破壊を内包しているし、形式に安住することを許さない。
最も長い生命をもつのは、けっして物質ではなく、理念であり思想である。
建築はたかだか100年の寿命しかないが、設計思想は不滅である。
この映画でも観念=思想の不滅を言う。

 思想こそ人間が最も頼ることのできる最高の財産であり、思想を鍛えることこそ人間の最高の営みである。
そして、思想は思想として鍛えられなければならず、物としての国会議事堂は、思考の鍛錬や持続には邪魔以外の何物でもない。
だから、革命がなったにもかかわらず、伝統のある国会議事堂を爆破しなければならなかったのだ。

 この映画は、まさに情報社会の思考そのものである。
本サイトが高い評価をする「オープン ユア アイズ」「ファイト クラブ」「しあわせな孤独」 「アイ、 ロボット」などからも、一歩抜け出そうとしている。
高い娯楽性と、大胆な主題に星を2つ献上する。
   2006年アメリカ映画     
    (2006.4.25)

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