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現代の様々なエピソードから、豊かな着想力を広げて、情報社会の物語を創りだしている。 主人公V(ヒューゴ・ウィービング)がマスクを使っている点に、ちょっと引っかかるものがあるが、観念が自立するという主題は、いかにも今日的である。 着想といい展開といい、優れた構想力に敬服する。
ナチの収容所、我が国の地下鉄サリン事件、9.11、ブッシュのイラク政策と国内政治などなど、衆目に新たな事件を使いながら、17世紀の革命家がとなえた理念を、丹念に追っている。 冒頭で、その革命家が吊し首にされるところで、政府を監視しなければならない、とのメッセージがうたわれる。 それから時代は飛んで、アメリカが荒廃しきった近未来のイギリスに移る。 ブッシュ批判が露骨なので、アメリカに舞台設定ができなかったのだろう。 「民衆は政府を恐れてはならない。 政府こそ民衆を恐れるべきだ」という、知的な遊びにあふれるこの映画は、ややレトロな独特の美意識に貫かれている。 そこへ、かつての革命家の理念を体現したVが登場する。 Vの登場の仕方はまるで、怪傑ゾロとかバットマンといった小児的な展開だが、娯楽作品とすれば充分に許されるだろう。 Vは抑圧と暴政で支配する政府への反抗を訴え、まず裁判所を爆破してみせる。 しかし、政府の反撃も素早い。 次にVは放送局を占拠して、テレビジャックする。 Vは希望と勇気を失った国民に歯がゆくてならない。 11月5日に決起せよと呼びかけ、Vの捜査を担当するフィンチ警視(スティーブン・レイ)を出し抜きながら、つぎつぎと手を打っていく。 これだけでは娯楽としての映画に、膨らみが欠ける。 Vをめぐる女性として、若いイヴィー(ナタリー・ポートマン)が登場して、物語に複雑さを加えていく。 イヴィーはVに、危ないところ助けられはしたが、けっして彼の部下になったわけではない。 現代女性の美点の一つとして、彼女は旺盛な自立心をもっており、エキセントリックなVには距離をとっている。 Vは要人の暗殺をすすめるので、身辺への捜査が伸びてくる。 イヴィーも徐々に巻き込まれていく。 とうとう彼女は公安に逮捕されて、Vの居場所を明かすように拷問にかけられる。 イヴィーは通常の人間であり、普通に恐怖心をもっている。 しかし、彼女は拷問に耐え抜いた。 恐怖心をのり越えたところで、逮捕や拷問はVの芝居だったとわかる。 激怒するイヴィーだが、とうとう11月5日が来てしまった。 この映画の主題は、観念を純粋に自立させようとするところにある。 情報社会では、すべての物質から重さがなくなり、観念が現実社会を支配するのだが、観念を解放するためには、形式や物質が桎梏となる。 確立された形式や制度が、自由な発想を引き出す邪魔をする。 観念は、内容そのものとして表出されなければならず、いかなる形式も自由な発想には害悪である。 と、この映画は訴える。 身分的な上下の規律を守ることが、円満な支配につながり、それが人々の幸福に役立った。 土地という生産手段の拘束から、逃れることができなかった時代には、 形式を大切にすることが人々の幸福を約束した。 しかし、近代へはいるときには、内実が形式を打ち破って、新たな社会を生み出した。 天与の支配者だった王様が殺され、人間という抽象的な観念を生み出した。 この抽象的人間は、歴史上初めて、身分制を否定して、全員が平等だといったのである。 現実の人間ではなく、観念としての人間を想定し、観念としての人間が平等なのである。 我が国では、いまだに現実の人間と観念としての人間が、分離していない。 そのため、この映画の言うところは、半分も理解されないだろう。 近代工業社会は、肉体労働から完全に分離できなかったので、観念の自立も中途で止まってしまった。 しかし、情報社会の暁光は、頭脳の働きこそ人間の可能性を広げるものだと、人々に認識させた。 そこで観念の自立が可能になり、反対に形式は観念を拘束するものとして、認知され始めたのである。 西洋諸国において、男女関係は法律婚から離れ、同棲といった事実婚へと変化した。 人間の愛情=観念は、結婚という形式に守られるのではなく、結婚という形式が愛情の醇化を阻害すると考えたから、法律婚という形式を捨てたのだ。 つまり純粋な愛情こそ大切なので、愛情をより大切にするためには、法律婚という形式があってはならない。 純粋な愛情の中で私生児を生む。 それが西洋人たちの到達した地平である。 11月5日がやってきて、映画の最後には群衆が、国会議事堂を包囲する。 そのときには軍隊も群衆に銃口を向けることはできない。 政府は転覆できたのだから、ここで国会議事堂を爆破する必要はもうなくなった。 しかし、イヴィーはVの遺体ともに爆弾を積んだ地下鉄を、国会議事堂へとむかわせる。 そして、大音響とともに、国会議事堂が爆破されていく。 その保証をするのが政治であるとすれば、国会議事堂には何の咎もない。 建物はただの器に過ぎないはずである。 しかし、情報社会の思考はそうは考えない。 観念は純粋に屹立する。 形式や制度があるかぎり、自由な観念は飛翔できない。 国会議事堂の存在が、自由という観念を束縛するのだ。 男女関係から、法律婚という形式を捨てたように、国会議事堂という形式を否定してみせる必要があった。 形式から完全に離れた観念などありえないし、観念自体が形式を生み出してしまうのは事実である。 しかし、つねに創造を求める観念は、いつも破壊を内包しているし、形式に安住することを許さない。 最も長い生命をもつのは、けっして物質ではなく、理念であり思想である。 建築はたかだか100年の寿命しかないが、設計思想は不滅である。 この映画でも観念=思想の不滅を言う。 思想こそ人間が最も頼ることのできる最高の財産であり、思想を鍛えることこそ人間の最高の営みである。 そして、思想は思想として鍛えられなければならず、物としての国会議事堂は、思考の鍛錬や持続には邪魔以外の何物でもない。 だから、革命がなったにもかかわらず、伝統のある国会議事堂を爆破しなければならなかったのだ。 この映画は、まさに情報社会の思考そのものである。 本サイトが高い評価をする「オープン ユア アイズ」「ファイト クラブ」「しあわせな孤独」 「アイ、 ロボット」などからも、一歩抜け出そうとしている。 高い娯楽性と、大胆な主題に星を2つ献上する。 2006年アメリカ映画 (2006.4.25) |
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