タクミシネマ           シャイン

☆☆ シャイン     スコット・ヒックス監督

 デヴィッド・ヘルフゴッド(アレックス・ラファロウィッツ)という実在の男性が、ピアニストになるまでを描いたオーストラリアの映画である。
と言ってしまえば簡単だが、多くの示唆に富んだ映画で、オーストラリアの豊さと大きく変化してる社会を反映した人間関係の形成が感じられる。
そして、クラシックと呼ばれる西洋音楽が、いかに西洋人たちの精神生活と深く関わっているかに圧倒される。

 ディヴィッドを演じたジェフリー・ラッシュと、その父ピーターを演じたアレックス・ラファロィッツの両者ともに上手かった。
話の展開も現代風で共感できたが、少し不思議だったのは、現代のオーストラリアがきわめて裕福に描かれていたことである。

 レストアされた古いジャガーUが日常の足になっていたり、精神病院が非常に清潔であの費用は誰が負担しているのだろうとか、些細なことだが気になった。

 主人公ディヴィッドは、裕福ではないが健全な両親のもとに長男として生まれる。
彼は小さな時からピアノに天才的な才能を示し、いくつかのコンクールで入賞して、父親の自慢の息子だった。
父親は、我が子をことのほか愛している。
ここが重要である。

 父親ピーターは「おまえは幸運だ。自分は小遣いをためて買ったバイオリンを、父親に壊された。
音楽が自由に練習できるおまえは幸せだ」と、常々息子に言う。
そして、音楽に専念するように叱咤激励する。
ピーターが生まれた時代は、いまだ農耕社会の残滓を引きずっており、音楽などでは生活ができなかった。
ピーターの父親は、生きていくための手段を身につけさせるために、ピーターに音楽などと言う道楽を遠ざけたのである。

 ピーターが父親になると、音楽でも生活ができるような裕福な工業社会になっている。
そこで彼は子供のディヴィッドにピアノを教える。
ところが父親ピーターはディヴィッドを愛するあまり、子供が大きく育って、自分の手元を離れるのに耐えられない。

 家族を壊す気かと言って、ディヴィッドが家族から離れるのを許さない。
家族の一体感を強調することによって、報恩=一種の親孝行を求めている。
誰でも親の仕事を継ぐのが当たり前の農耕社会なら、親孝行は当然の教育だった。

 農耕社会では階層移動がなく、農民の子供は農民にしかなれなかった。
子供を激しい出世競争の戦列に並べることはなかった。
工業社会では、本人の才能と努力によって、恵まれた階層へと上昇できるようになった。
そのため、男性たちは必死で働くようになった。

 自分の子供にも上昇指向を求めたが、精神構造は農耕社会のそれを引きずっていた。
つまり、父親の意識は農耕社会の相続観=恩返し意識に捕らわれたままである。
初期工業社会には、我が国でも愛するがゆえに子供を拘束するピーターのような父親は多かった。
この映画では、女性の小説家がディヴィッドの良き理解者として登場するが、これが救いである。

 コンクルールで優秀だったディヴィッドは、アメリカへの留学は許可されなかったが、もう一度チャンスが来る。
イギリスへの留学である。
ディヴィッドは父親ピーターの反対を押し切って家を飛び出す。
イギリスの音楽学校でも優秀な成績を示すが、あまりの精神集中によって精神に異常をきたし、社会生活ができなくなる。

 父親からの強度の拘束が脅迫観念になり、それが精神異常の遠因かも知れないが、それだけが原因だと見るのではない。
天才とは狂気と紙一重と理解した方がいい。
表現の世界には、神が住んでいるのだ。
極度の音楽的な集中が、常軌を逸した行動を生み出す。

 イギリスでの音楽修行が印象的だった。
音楽の教師は楽譜に忠実に、しかし、それに解釈を乗せろと言う。
ピアノの演奏が、技術に支えられた表現であることが強調される。
スコット・ヒックス監督は演奏された音の扱いがうまい。
主人公のひくピアノが、あたかも言葉のように聞こえてくる。
高く低く、強く弱く、演奏技術を越えて聴く者の心に語りかける。
また、ピアノに絡んだ場面が実に美しく、演奏の途中で音を消した没入表現もよかった。

 精神に異常をきたしたディヴィッドは、精神病院で生活するようになる。
やがて回復し社会生活はできるようになるが、父親は引き取りを拒む。
引き取り手がいないので、彼は精神病院での暮らしが続く。
ある日、ピアノを通じて知り合った奇特な女性が彼を引き取る。

 しかし、彼女はディヴィッドを持て余す。
奇行は残っているが、ほとんど平常人となったディヴィッドは、レストランでピアノをひいたことから、急に世界が開けていく。
禁止されていたピアノに徐々に馴染みだし、かっての天才性を回復する。
良き理解者に恵まれて、彼の生活はピアノを中心に回転をはじめる。

 そこへ星占いを職業とする女性が登場し、彼は強く惹かれ結婚したいという。
いまだ正常とはいえないディヴィッドのプロポーズに彼女は驚くが、星占いに従うと吉である。
金持ちのフィアンセがいたにも関わらず、彼女はディヴィッドのプロポーズを受ける。
これが実に今日的である。
すでにオーストラリアでは結婚が経済的な保証を意味せず、心のふれあう人間同士の同居になっていることを、映画は語っている。

 人間が生活していくためには、自然の法則に服せざるを得なかった農耕社会から、人間の意志だけで生活できる情報社会へと明らかに転換している。
古き良き時代の生活を強制する父親は、子供を鋳型にはめ、新たな人格を破壊する人物として表現されている。

 父親だって、子供を愛していることは人後に落ちない。
それは何度も映画のなかで繰り返される。
愛情のあるなしではなく、愛情の表現される形が時代を無視するとき、子供にはかえって桎梏となる。
それがこの映画の最大の主張である。

 この映画は、父と子、そして良き理解者である女性の話として見がちだが、そうした個人的なものとしてのみ理解されるのではない。
音楽が個人的な表現となった現代と、農耕社会の残滓をひきずる時代の錯綜と見るべきである。

 人間が個人として自立し、自然の桎梏から自由になっていくことを確認すべきである。
障害者も健常者も同等な立場にいる。
だからこそ彼女は、まだ完全に正常ではないディヴィッドとの結婚に踏み切れるのである。
スコット・ヒックス監督は、さりげなく二人のベットシーンを映す。
この監督の暖かい人間愛に共感すると同時に、その真摯な姿勢に脱帽する。

 上昇指向をもった厳父は、初期工業社会のものである。
工業社会から情報社会への転換期には、こうした父親は本人がそれなりの成功者であるだけに、家庭的にはトラブルメーカーになりやすい。
情報社会へ入ったアメリカでは、こうした父親はもはや姿を消している。

 アメリカの現代映画では、厳父は登場しない。
しかし、工業社会の歴史が浅いオーストラリアには、こうした父親が我が国と同様につい最近まで生きていたのであろう。
この映画は、オーストラリアが今ちょうど情報社会への転換期にあることを示している。
1995年オーストラリア映画。


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