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「ミリオンダラー ベイビィ」と同じ主題をあつかい、 新たな時代の家族を描いて、優れた視点を提出している。 映画の完成度では、若干の問題があるが、 32歳という若い監督の、新たな時代を切り開く心意気に共感し、点は甘いが2つ星をつける。
ミラ(ムン・ソリ)という女性が、一人で暮らしている。 そこへ音信不通だった弟のヒョンチョル(オム・テウン)が、とつぜん帰ってくる。 風来坊のような彼は、刑務所に入っていたこともあるが、いたって気の良い奴である。 彼は20歳以上も年上の女性ムシン(コ・ドゥシム)を、妻としてつれてきた。 3人が同居するのかと思うと、ムシンの前夫の女の子のチェヒョン(チョン・ユミ)がやってくる。 そして結局、弟はまた家出し、血縁のない女3人が、一緒に暮らすことになった。 これが伏線になる第一の家族である。 別の話。元気のいいソンギョン(コン・ヒョジン)は、恋多き母親のメジャに振りまわされていた。 母親と新しい男とのあいだに、ギョンソク(ポン・テギュ)という弟ができるが、 彼女はいささか持てあまし気味である。 しかし、母親が病気で死んでしまったことから、ギョンソクを引き取って暮らすことになった。 ギョンソクはチェヒョンと出会い、恋に陥る。 しかし、チェヒョンは誰にも優しい。 ギョンソクとの約束も忘れて人助けをしてしまい、彼をすっぽかしたりする。 心の広いチェヒョンは、多くの人に愛情を注ぐため、ギョンソクは自分が愛されているか不安になった。 彼は自分が特別の存在かどうか疑わしくなる。 彼女を恋人にして良いか、彼は迷う。 チェヒョンは困っているときはお互い様と、誰にでもお金は貸すし、求められれば寝てもしまうらしい。 そんな彼女に、彼はとうとうキレてしまった。 これは当然だろう。 現在、恋人同士であるということは、ほかの人とは肉体関係を持たない、というのが暗黙の約束になっている。 だから、恋人という関係にありながら、他の男と寝ていれば、ギョンソクがキレルのは当然である。 しかし、彼女はギョンソクを愛しているが、私は軽い女だ、それが悪いか、と開き直った。 この台詞はスゴイ。 近代の恋愛教科書は、愛情にもとづいたセックスが素晴らしいといった。 近代の恋愛とは、愛の証として肉体関係をもち、しかも他の人とは肉体関係を結ばないというものだ。 近代の恋愛は、男女の2人が愛しあう姿を美化し、 2人のあいだに他の肉体関係が入ることを、不義とか不倫とよんで否定した。 しかし、愛と肉体関係は、別物である。 肉体関係があっても愛のないことはあるし、愛があっても肉体関係のないことはあり得る。 近代家族の性別役割分担を徹底するためには、2人の男女を対として固定し、 セックスを家族内に封じ込める必要があった。 だから今まで、恋人たちは浮気を否定して、セックスを社会の管理にゆだねた。 チェヒョンは社会によるセックス管理を振り切ったのだ。 近代の恋愛は、愛と肉体関係を結びつけた。 セックスを互いに独占し、恋愛から結婚へと至るのが、正しい恋愛だと布教した。 恋愛を1組の男女に限定することによって、人間の精神活動を、2人の個別的な関係に押し込むことになった。 そのため、恋愛にかんしては、エゴイストであることこそ、素晴らしい恋人になった。 エゴイストが1人の女性を愛するのと、ヒューマニストが1人の女性を愛するのでは、 女性はエゴイストからのほうが、愛情が強いと感じるだろう。 エゴイストは、1人を独占的に愛するだろうが、 ヒューマニストはほかの人を無視できずに、ほかの人にも自分の好意を割いてしまう。 いい人だけれど…、と女性が言うのは、自分を独占してくれないということの別表現でもあろう。 自分だけが恋人を独占している、という感覚が恋愛だというように、近代の教科書は教えたのだ。 しかし、2人の結びつきが排他的になれば、個人が社会の単位になるのではなく、男女の対が人間関係の単位になってしまう。 しかし、近代の恋愛は、1組の男女が終生にわたってセックスするのだと固定し、セックスがらみで互いに相手の人格を独占させた。 愛し合う男女のセックスこそ美しい、と近代は宣伝した。 これこそ終生の一夫一婦制を支えるイデオロギーだった。 自由であるはずの愛情やセックスを、核家族へと固定してしまったのが、近代の恋愛である。 社会の単位を個人ではなく、男女の対にしたことが、性別役割分担を支える根幹だった。 ここからは嫡出児こそ正当である、という差別がうまれてくる。 そして、現在の法律婚へとつながる終生の一夫一婦的な家制度が導かれた。 しかし、情報社会になって、このイデオロギーが綻びはじめた。 そのため、先進国では結婚を指向しない人が登場し、非嫡出児が大量に産まれ始めた。 恋愛結婚から、終生の一夫一婦という核家族へという道は、セックスの管理には最適だった。 個人ではなく、対を単位として、人間をまとめた。 しかし、いまやこの道が否定されている。 情報社会では、性別役割分担が否定されるので、男女の対ではなく個人が単位になる。 とすれば、セックスも固定的な男女の対から解放されなければならない。 この映画は、こうした近代の核家族に、新たな家族像を対置させた。 ミラとムシンの女だけで、血縁のないチェヒョンを育て上げ、 そこへギョンソクを引っ張り込むという結末は、対なる男女だけが家族ではないと言っている。 気持ちのつながる人間こそ家族だ、というエンディングを見ると、この映画の主張がよくわかる。 1対の男女がつくる終生の核家族は、性別役割分担を内包している。 もはや核家族は、人間を大事にする家族たり得ない。 家族とは、精神的な絆によってつながり、それは男女の対である必要もないし、血縁がある必要もない。 最後には血縁の弟のヒョンチョルを拒否させた、「Family Ties」という原題の、この映画は家族のあり方を、決定的に拡大させた。 しかし、この映画は男女が互いに独占的に拘束するのは、真の家族愛ではないという。 この韓国映画は開かれた人間関係こそ、新たな愛情のあるべき姿であるという。 そして、単家族的な関係こそ新たな家族であり、人間を大切にするのだという。 核家族への不満を描いた、「浮気な家族」という韓国映画があったが、 2003年に撮られた「浮気な家族」より明らかに進んでいる。 5年前の映画は、核家族への不満が主題だったが、 この映画は「ミリオンダラー ベイビィ」と同じように精神的な繋がりをうたい、新たな家族像を提出している。 ミラを演じたムン・ソリが上手いのはいうまでもなく、 ムシンを演じたコ・ドゥシムも上手かったし、メジャを演じた女優さんも上手かった。 それにしても韓国女性は強い。 韓国女性恐るべし、韓国映画恐るべしである。 室内から屋外を撮すときに、屋外が明るすぎて色がトンでいたり、 冒頭のイントロにもたつきがあったりと、やや欠点も目立つ。 しかし、この映画の主張は、まぎれもなく新しいものである。 しかも、この映画に韓国映画界は、多くの映画賞を与えた。 おそらく韓国は、少子化を克服するであろう。 ストーリーの展開を省略し、最後まで話の全貌を見せない手法は、最近のハリウッドに通じるものがある。 これだけ省略するのは、観客の想像力に期待したもので、先進国の映画でしかできない。 それにしても、この映画を単館上映で、たった1週間しか公開しない我が国。 何と寒い上映環境であろうか。 2006年韓国映画 (2008.03.05) |
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