タクミシネマ        イースト・ウエスト−遥かなる祖国

☆☆ イースト・ウエスト 遥かなる祖国
レジス・バルニエ監督

 カソリックの一元支配という巨大な抑圧体制のなかで、人間の本心と折り合いをつけてきた人たちは、政治体制の問題にも同じように対応する術を知っている。
体制や政治の谷間で、人間が翻弄される映画をつくらせると、カソリックの国の人はさすがに上手い。
東方聖教というキリスト教のロシアも、この映画を作るくらいには、解放が進んだようだ。
イースト / ウエスト 遥かなる祖国 [DVD]
前宣伝のビラから


 この映画は、1946年にソ連が、亡命ロシア人の帰国を認めたことに発している。亡命生活は厳しい。
祖国への望郷の念は、強いものだ。
そこへ祖国から、帰国許可がでた。
ソ連政府は、過去は問わないという。思わずそれにのってしまった人の多くは、ソ連に着くと帝国主義のスパイだとして、ほとんどが処刑されてしまった。

 この映画の主人公アレクセイ(オレグ・メンシコフ)は医者だったので、かろうじて処刑を免れた。
その妻マリー(サンドリーヌ・ボネール)と息子セルゲイ(ルーベン・タピエロ)は、息をひそめて生活していく。
アレクセイの屈折しながらも生きる心理の表現が、この映画の白眉である。
失敗だった帰国への後悔が、彼の無情な表情にあらわれる。
 物質的に貧しい生活には、人間は耐えられる。
希望に満ちた革命の未来を信じればいい。
しかし、現実のソ連は、非人間的な規則と密告とシベリア送りの国だった。
アレクセイの妻マリーは、フランス人でありながら、夫の祖国へきたのだ。
自由を知った西側の人間には、ソ連の生活は耐えられない。
たちまちヒステリーを起こす。
そこはソ連のこと、絶望の壁が立ちはだかる。


 アレクセイとマリーは、フランスへ帰国することだけを念じて、その後の生活を始める。
子供を伴っての再亡命は、不可能に近い。
10年後、密告網やKGBの厳しい監視の目をのがれ、マリーとセルゲイだけがフランスに帰国できる。
その10年間、彼らは固い信念の絆で結ばれていたが、それも時には怪しくなりかけた。

 ソ連での生活は、外国人であるというだけで、監視の対象だった。
当然だろう。
我が国の戦前だってそうだった。
異質な分子は、監視しなければ危ない。
それは体制の常套手段である。
外国人とつきあった人たちにも、監視の目は及ぶ。
フランス語を話せる老婆が、マリーとフランス語を話したというだけで、処刑されていく。

 老婆には、孫のサーシャがいるだけで、なぜか子供夫婦はいない。
祖母を殺されたのはマリーのせいだと、サーシャ(セルゲイ・ボドロフ・ジュニア)はマリーを逆恨みする。
しかし、サーシャの両親は、反抗分子として処刑されていた。
老婆の遺品によってそれを知ってから、サーシャはマリーたちと仲良くなる。

 マリーはサーシャを力づける。
サーシャに水泳を続けさせる。
サーシャは冷たい川の水で泳ぐ。
それが何年か後の亡命に役に立った。
しかし、マリーは亡命幇助で、6年間のシベリア送りとなる。
彼女はソ連に到着してから10年後、ブルガリアのソフィアでフランス大使館に逃げ込んで、かろうじて帰国がかなう。


 マリーらの帰国を手助けしたのは、フランスの人気女優ガブリエル(カトリーヌ・ドヌーブ)である。
ソフィアでの亡命シーンには、ほんとうにもう見ていられない。
ちっぽけな紙切れであるパスポートが、国境線を越えるためには不可欠である。
ガブリエルのくれたフランスのパスポートが、どれほどありがたく見えたことか。

 すでにパスポートを持っているマリーだが、それでも警察官の目は恐ろしい。
逮捕されてしまえば、ソ連へと連れ戻される。
公安警察というのは、どこの国でも残酷である。
彼女のストッキングから、警官はソ連人だと見破るが、かろうじてフランス大使館に滑り込む。
「ここは自由の国よ」と、ガブリエルの言う言葉が、ほんとうに心にしみる。
たった一枚のちゃちな門扉が、自由を保障してくれる。

 やや暗い画面に、ソ連の辛い生活をきっちりと描きだし、映画は人間の尊厳をしずかに訴える。
庶民は皆いい人たちである。
しかし、庶民が集まると、恐ろしい形態ができあがる。
そのなかで翻弄される庶民たち。
人間の尊厳は、決して物質的なものではない。
フランス人たちは、自由こそ尊厳の源だと考えているのだろう。 

 カソリック支配のなかで暮らしてきた人たち。
国境が錯綜していた地域で暮らしてきた人たち。
彼らは政治を肌で知っている。
なかなか本心を表さない。
表面はにこにことしながら、内心では逃亡を考え、寝首をかこうとする。
内心を秘し、滅多なことでは本心をいわない。
そうしなければ生き伸びることができなかった。
マリーがソ連の軍人とダンスをするシーンは、万感の思いが伝わってきて、ほんとうに胸が熱くなる。


 プロテスタントは本心に忠実であれ、と新世界へと逃亡した。
彼らはそこで法王や教団から逃れ、心の内外が背反しないですむ世界を作った。
旧世界では、自己の信仰に忠実に行動したら、たちまち殺されてしまう。
神に忠実な生活態度だけでは、政治を生き延びることはできない。
だから表裏のある生活をする。
それが過酷なカソリックをいきる方法だった。
プロテスタントを信じる陽気なアメリカ人には、政治映画を作ることはできない。

 カソリックが支配する南米も事情は同じである。
しかも、南米はカソリックと軍部の独裁が、二重に重なっている。
反体制運動は困難を極める。こういった言い方は顰蹙ものかも知れないが、南米からは優れた抵抗文学が生まれる。 映画でも、「クワトロ・ディアス」という秀作が生まれている。
しかし、抵抗が人間を鍛えるといっても、ほんらいは抵抗文学など生まれないほうがいい。
抵抗すべき過酷な体制など、存在してはいけない。

 新世界のアメリカ人は、信じる道に忠実であるがゆえに、楽天的な人生観をもてる。
それは眩いばかりに正しいし、幸せな人生である。
しかし同時にそれは、心理の襞といったものが少ない人間性であり、単純な幼い人間像である。
それにたいして、抵抗のなかに生きた人は、屈折した心理を持ち、何重にも折り畳まれた心の襞を有している。
たくさんの深い心の襞は、必然的に大人の風格をうむ。

 きわめて正統的な手法で作られた映画で、見る者に人間が生きることを考えさせてくれる。
先端的な経済世界では凋落著しいフランスだが、こうした映画を見せられると、その底力には脱帽させられる。
この映画を見ると、国際政治の舞台でなぜフランスが強く、アメリカが弱いのかがよくわかる。
またマリーの訴えを、全身で受け止めるガブリエルにも感激する。
我が国であれば、外国の政府から人権侵害にあった人を、救出するだろうか。
少なくとも日本政府は、救出しないだろう。

 プロテスタンティズムの倫理が、資本主義=近代を生んだのなら、近代がイギリスから始まったのも当然である。
そして、単純なプロテスタントであるが、プロテスタントの生み出した近代がいかに偉大だったか、今更ながらによくわかる。
最近のフランス映画には星をつけなかったが、この映画には星二つを進呈する。

1998年のフランス・ロシア・スペイン・ブルガリア映画        

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