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優れた原作の優れた映画化である。 人間の観念の生み出した物が、ユニークな存在となり、独自性を持つがゆえに、人間を離れて考える。 人間に奉仕すべきはずのロボットが、人間への奉仕に徹底したとき、人間を離れて人間存在を越えた存在となる。 観念の逆説を描いて、極めて説得的であり、民主主義の原点に至っている。 アイザック・アシモフの古い原作だが、内容はまったく古びていない。
人間に奉仕するロボットには、3原則が与えられている。 1.ロボットは人間に危害を加えてはならない。 2.ロボットは人間から与えられた命令に服従しなければならない。 3.ロボットは前2条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。 ロボット3原則は正しい。 しかし、この原則は矛盾した凶器となって人間に返ってくる。 逆説的な主題を、最後の15分くらいで、この映画は一挙に凝縮してみせる。 2035年、NS−5型という新世代のロボットが誕生しようとするとき、ロボットの生みの親であるアルフレッド・ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)が殺される。 その捜査にロボット嫌いで有名なシカゴ市警の刑事デル・スプーナー(ウィル・スミス)がいどむ。 ロボットは工業製品なので、感情を持たず夢を見ることもないはずである。 しかし、博士の部屋にあったNS−5型は違った。 このロボットは、大量生産された他のNS−5型とは違い、サニーと名乗って独特の自意識を持っていた。 ロボットがユニークであることを、信じられなかったロボット心理学者スーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)だが、やがてNS−5型のなかでも、サニーだけが特別にラニング博士によって創られたこと知る。 ロボットが殺人をしたとあっては、NS−5型の新発売に差し支えが出る。 そこで、サニーは解体処分にふされるが、その任にあたったスーザンは、彼がユニークであるがゆえに解体できなかった。 しかし、問題はサニーにあったのではない。 やがて、ロボットの反乱とも言うべき、大変な事態が進行していることが明らかになる。 メインフレームの大型ロボットのヴィッキに、問題が発生していた。 ヴィッキはロボット3原則を遵守しようとするがゆえに、言い換えると、人間を守るために、人間に反抗しだした。 つまり人間を守るために、障害となる人間を殺すのだった。 しかも、大型のコンピュータであるヴィッキは、NS−5型ロボットを手足のごとく操って、人間に逆らい人間に命令し始めた。 人間は人間を守るために、人間を殺しても良い。 この論理は、現在でも圧倒的な正しさを持っている。 死刑が許されるのも、人間を守るためだし、戦争が正当化されるのも、すべて人間を守るためだ。 しかし、人間が人間を殺すことは許されても、ロボットが人間を守るために、人間を殺すことは許されない。 3原則の逆説を、ロボットで説明しているが、人間が人間を裁くことも、実は同様の背反をはらんでいる。 神様に生かされていた時代なら、神の教えが正しかったので、神の名において人間を裁くことが出来た。 しかし、神が死んだ今、絶対ではない人間が、人間を裁くことは出来ない。 にもかかわらず、人間は人間を守るために、いまでも正義の名の下に人間を裁く。 この映画では、工業製品であるロボットが、人間を裁こうとする。 工業製品にはユニークさはない。唯一なものだけがユニークである。 ユニークであることは、神であることと同様である。 ユニークつまり独自性こそが、神のなす仕事であり、創造なのである。 神を殺した近代社会では、ユニークである=創造的であることが、何よりも重要なのだ。 ユニークであるから社会が持続する。 スーザンはサニーがユニークであると何度も強調する。 この映画は、やはりアメリカのものだ。 我が国ではユニークであることの意味が、理解されていない。 ユニークであると言われるのは、変わり者と言われているに等しく、ユニークが創造的であるとも言われない。 だいたい創造的であるよりも、協調的であることのほうが評価が高い。 これでは自立を求める近代社会とは言えない。 我が国は近代社会ではないので、人々は安心して和が大切だと言える。 ユニークであるとは誰とも違うことであり、違うがゆえにデモクラシーしか成立しない。 デモクラシーを民主主義と翻訳すると、デモクラシーたらしめていた命がなくなる。 ユニークを尊ぶから、人間を守るために人間を殺す、という逆説が成立する。 協調性を大切にする社会では、この映画の描く逆説は成立しない。 最後に、サニーとスプーナーは握手をして、ロボットと人間が共存する。 しかし、サニーがこれからどうすればいいのかと聞くと、サプーナーは自分で考え決めることだと応える。 ここでもこの映画の主題が、再び形を変えて確認される。 ユニークであるがゆえに、自分で自分の行動を決めなければならない。 ここで決定に自己責任がつきまとう。 近代人は不可避的に神の孤独を生きなければならない。 無駄のない物語の運びといい、終盤での主題の開示といい、充分に及第点がつく。 哲学的な主題を、誰でもが楽しめる娯楽作品に仕立てあげている。 特撮が多用されており、大変なお金がかかっていると知れる。 しかし、お金の多寡と、作品のできには相関関係は薄い。 ちょっと点が甘いかも知れないが、星を2つ献上する。 2004年アメリカ映画 (2004.10.15) |
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