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「ドグマ95」なので躊躇したが、鋭い問題意識と密実な展開に、心から驚かされた。 当サイトは星2つを最高評価とし、1年間で5本程度しか星2つを献上しない。 しかし、この作品は星3つを献上したくなった。 見終わって、監督が44歳の女性だと知って、改めて本当に驚嘆した。 男性ではここまで描けない。 その能力を絶賛する。
今にも結婚したい幸せそうな男女がいた。 男性は ヨアヒム(ニコライ・リー・カース)といって地理学を専攻する大学院生で、女性はセシリ(ソニア・リクター)というコックさんである。 女性の社会進出が進んでいるとは言え、女性がコックという設定からして驚く。 ヨアヒムが中年女性マリー(パブリカ・スティーン)の車にひかれ、首から下が麻痺し動けなくなる。 激変した自分の環境に適応できず、彼はセシリを激しく拒絶するようになる。 セシリは彼の力になろうとしていただけに、衝撃を受けて悩み始める。 ヨアヒムをはねたマリーの夫ニルス(マッツ・ミケルセン)は、ヨアヒムの入院した病院に勤める医者だった。 マリーからの要望もあって、セシリに経過報告や慰めるために会っているうちに、ニルスとセシリは恋に落ちていく。 セシリは恋人が入院中で、しかも首から下が不随という重体である。 ニルスには妻と子供3人がいる。 普通なら共に許されない恋である。 とりわけニルスには、思春期にさしかかった娘のスティーネ(スティーネ・ビェルレガード)と、2人の小さな男の子がいる。 彼がセシリに走れば、子供を抱えたマリーは、生活が立ち行かなくなる。 許されるはずがない。 しかし、この監督は結局この恋を肯定する。 その展開が見事である。 教師は教師らしく、親は親らしく、子供は子供らしくといった、社会的に決められた役割が存在した。 各人は個人としてよりも、まずその役割を果たすことが要求された。 自分の希望を貫いてしまえば、社会が立ち行かない。 だから、子供をおいて家庭を出れば、身勝手だ、親の資格がない、親の愛情がないと、家出でした人間を社会は声高に責めた。 逆に役割を果たしさえすれば、立派な人物だと言われた。 この時代まで、役割を果たす人間が有用であり、役割のあり方が人間の価値を決めた。 社会的な地位や経済的に豊かなことが、人間性の評価結びつきやすく、必然的に女性や子供は劣位と見られた。 裸の個人よりも、役割などの地位が優先されたので、個人をそのまま評価する契機は生まれなかった。 それが「クレーマー、クレーマー」で、女性が子供を棄てて社会性に生きても良いのだ、と宣言された。 女性が子供を棄てても、身勝手だとは言われなくなった。 しかし、当時、女性が男性と対等になると言う、新しい社会的な正義に生きるがゆえに、子供を棄てることが辛うじて肯定されたに過ぎない。 成人が自分の欲望に従って、子供や家庭を棄てることは、まだまだ否定されている。 一度選んだ役割である以上、それを引受よという社会的な圧力は、まだまだ強い。 我が国のフェミニズムは、時代がまったく見えていないので、男性を家庭に引きずり込もうとする。 だから、男性が若い女性との恋に走るのを、絶対に肯定しないだろう。 しかし、この映画はそれを肯定する。 それは、情報社会では役割に生きるよりも、たとえ身勝手と見られようとも、個人の欲望に従うほうが、社会的な価値が高いことを知っているからだ。 情報社会では、個人的な頭脳労働が社会を支える。 頭脳労働こそもっとも大切であり、頭脳労働の解放なくして、社会の生産性は語れない。 役割に生きていた時代なら、肉体労働が主流だったから、頭脳を解放しなくても社会は成り立っていた。 しかし、役割を云々することは、頭脳の働きに枷をはめることである。 父親とか母親といった役割の押しつけは、個人の生き方を拘束してしまう。 ただ個人の生き方が、裸のまま差し出され、それを肯定しなければ、社会的生産性は低下する。 個人とは裸の精神以外の何物でもない。 頭脳労働とは、大量生産的な労働には適さず、きわめて個人的なものだ。 頭脳労働の解放のためには、欲望を含めた個人の発想を、無条件に認める必要がある。 親とか子供といった役割を、個人に強制することは、自由な頭脳の働きに制限を加えることだ。 だから、自由こそ尊重されなければならない。 今やっとフェミニズムの主張した人間解放が、実現されようとしている。 ニルスの不倫がばれたとき、妻のマリーは夫を殴打して軽蔑する。 工業社会の価値観では、不倫した方が悪者である。 しかし、夫がセシリを選ぼうとすると、マリーは出ていかないでくれと泣いて謝る。 正しい者が悪者に謝らざるを得ない。 女性が解放される以前は、これが真実だった。 これは並の女性監督ができる演出ではない。 およそ我が国のフェミニズムからは、想像もつかない描写である。 女性が社会的台頭を果たした今、少なくとも男女間に強者弱者の関係はない。 だから、家族を担うのは、男女平等に負わされる。 フェミニズムは女性に自由をもたらすだけではない。 女性に経済力がなければ、男性は女性を対等に扱えない。 男女が平等だからこそ、男性にも自由が手に入った。役割に縛られる限り、男女ともに自由とは言えない。 この映画は、監督が自分で立案している。 この監督の視線は、完全に情報社会化している。 娘のスティーネは、自分が失恋したことも手伝って、男女間にきわめて神経質になっている。 そこへ父親の家出である。 彼女は父親を問いつめ、セシリの家に家庭を毀さないくれ、と言いに押し掛ける。 しかし、彼女もすでに恋愛感情を知る年齢になっている。 セシリの様子から、恋愛感情の強さがただならないものであることを知り、父親を1人の男として見るようになる。 スティーネはセシリの家から戻ると、父親に謝罪する。 そして、握手で仲直りができたかと思う瞬間、父親の男性としての面を発見する。 ニルスは父親として役割よりも、セシリとの恋を選ぶと、直感的に理解してしまう。 もちろん、彼女はニルスを許すはずがない。 ここでは子供と父親という関係と、1人の人間同士という関係が、複雑に錯綜している。 女性の自立が、なぜ子供の問題を引き起こすのか、ほんとうに理解できる。 ヨアヒムに対する描き方も、なかなか鋭い。 おそらく突然の事故で、首から下の神経が麻痺したら、自己を統一できず、ああした対応になるだろう。 そして、もちろん性的能力も失われた。 そんな彼は、セシリとの別離を選ぶ。 23歳のセシリは、今後の長い人生がある。 彼女が恋人という役割から、妻という役割へと継続すれば、彼女は一生にわたって、ヨアヒムの世話をしなければならない。 もちろん彼女の性的人生は、まったく閉ざされることになる。 実際に恋人が、このような状態になったとき、相手はどのような態度を取ればいいのか、決まった最適解はない。 立ち直った後のヨアヒムのような態度は、おそらく常人にはとれないだろう。 ヨアヒムの態度が望ましいのだろうが、これだけ冷静な判断ができるだろうか。 彼の態度を肯定するために、建前的に描いている部分もあるだろうが、きわめて冷静な視線に驚嘆する。 この監督は、性的な欲求も含めた全的な人間を肯定する。 それは個人の解放こそ、今後の社会を支えるに不可欠だから、頭脳と欲望を分離できない以上、欲望も肯定せざるを得ない。 頭脳と欲望を分離したら、役割といった建前の世界に戻ることになる。 フェミニズムを体験した女性は、役割の世界には戻れない。 男女が等価な今、男性の欲望を否定することはできない。 男性の欲望を否定すれば、女性も欲望が否定される。 女性が哲学を語り始めた。そう感じさせる映画である。 いま我々は、フェミニズムの収穫を手にし始めた。 近代へはいるときに、時代に適応できずに、沈んでいった多くの人がいたように、後近代への適応でも困難が伴う。 近代にはいるときには、人間として自立したのは、市民といわれる男性だけだった。 それが今では、残された人口の半分が自立したのだから、ほんとうに厳しい時代になる。 何と厳しい映画であろうか。 恋愛を甘美なものと見たがるが、恋愛の裏には厳しい競争がある。 人を愛することは大切だが、そんなことはすでに誰でも知っている。 恋愛から人間関係が始まっても、その人間関係を維持するのは困難なことだ。 維持のためには、不断の努力が必要である。 しかし、この映画のように努力していても、ライバルの登場によって、たちまち棄てられて関係は破綻する。 女性が自立している以上、男性の心変わりを責めることはできない。 恋愛の自由市場は、関係の維持に不断の努力を要求しながら、努力の結果を保障しない。 恋愛の自由市場は、強者と敗者がはっきりしている。 見合い結婚があった時代、夫や妻という立場が、男女の行動を律した。 夫や妻という役割を演じれば、社会はその人間を充分に認めた。 父親とは、まず稼ぎだった。 だから、稼いでくれば、及第点がついた。 我が国のフェミニズムは、父親が稼ぐ存在であるだけでは許さない。 男性には稼ぐ役割と、個人としての生き方を要求している。 女性も役割から脱するなら、稼ぎがなければならないし、個人としての魅力を要求される。 見合いが消滅した社会では、恋愛が男女をつなぐ。 しかし、恋愛では、役割が人間を支えない。 そこまで判っていながら、この監督は恋愛の自由市場を肯定し、ニルスとセシリの恋を肯定する。 役割が人間を支えなくなるとは、自己の精神は精神自体が支えることを意味する。 精神自体が精神を支えるとは、精神だけで立つことだから、一種の自己矛盾である。 裸にされた精神とは、頭脳が肉体を支えることだ。 神経を病む現象が頻出するだろう。 自由とは本来的に孤独で過酷なものだ。 孤独を引き受ける覚悟がなければ、恋愛は語れないのだが、この監督の目はそこまで届いている。 役割に生きた時代には、家族が「家」をつくって生きざるを得なかった。 そして、家が個人を守った。 父や母の役割が、個人を消し去っても、家を保つ限り、人間は生活ができた。 家は社会福祉制度だった。 しかし、近代では家制度は否定され、個人が社会に放り出された。 そこで、家に代わって社会保障制度が個人を守るようになった。 核家族も終焉しようとする今、老人を家族が保護できなくなったので、介護保険ができた。 核家族も分解すれば、子供の保護が不可欠になる。 この映画でも、スティーネが家族を壊さないでくれという。 いまだ子供を育ている機能は、家庭が担っている。 しかし、個人の肯定は、子育てを社会化せざるを得ない。 それがこの映画からも良く伝わってくる。 ドグマは好みではない。 しかし、この映画では、照明不足のざらついた場面が、心理描写として上手く使われており、あまり抵抗感がなく見れた。 やはり、手法や描き方よりも、何を描くか、主題こそ最大の問題である。 如何に描くかではなく、何を描くかこそ、時代を切り開くうえでもっとも大切だと、改めて確認した。 1960年代には、我が国と西洋諸国は、女性の解放=人間の解放において同じ位置にいた。 しかし、何と差がついてしまったことか。 映画は大衆に支えられる。 この映画がデンマークで大喝采を浴びたというのと、我が国の現状は比較のしようがない。 それにしても、女性が時代を切り開く力をもった。 本当に衝撃の作品だった。 英語のタイトルは、「Open Hearts」 2002年デンマーク映画 (2004.1.30) 河畔望論へ |
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