タクミシネマ       しあわせな孤独

☆☆ しあわせな孤独    スザンネ・ビエール監督

 「ドグマ95」なので躊躇したが、鋭い問題意識と密実な展開に、心から驚かされた。
当サイトは星2つを最高評価とし、1年間で5本程度しか星2つを献上しない。
しかし、この作品は星3つを献上したくなった。
見終わって、監督が44歳の女性だと知って、改めて本当に驚嘆した。
男性ではここまで描けない。
その能力を絶賛する。
しあわせな孤独 [DVD]
公式サイトから

 今にも結婚したい幸せそうな男女がいた。
男性は ヨアヒム(ニコライ・リー・カース)といって地理学を専攻する大学院生で、女性はセシリ(ソニア・リクター)というコックさんである。
女性の社会進出が進んでいるとは言え、女性がコックという設定からして驚く。
ヨアヒムが中年女性マリー(パブリカ・スティーン)の車にひかれ、首から下が麻痺し動けなくなる。

 激変した自分の環境に適応できず、彼はセシリを激しく拒絶するようになる。
セシリは彼の力になろうとしていただけに、衝撃を受けて悩み始める。
ヨアヒムをはねたマリーの夫ニルス(マッツ・ミケルセン)は、ヨアヒムの入院した病院に勤める医者だった。
マリーからの要望もあって、セシリに経過報告や慰めるために会っているうちに、ニルスとセシリは恋に落ちていく。


 セシリは恋人が入院中で、しかも首から下が不随という重体である。
ニルスには妻と子供3人がいる。
普通なら共に許されない恋である。
とりわけニルスには、思春期にさしかかった娘のスティーネ(スティーネ・ビェルレガード)と、2人の小さな男の子がいる。
彼がセシリに走れば、子供を抱えたマリーは、生活が立ち行かなくなる。
許されるはずがない。
しかし、この監督は結局この恋を肯定する。
その展開が見事である。

 情報社会にはいるまでは、個人は役割のかなに生きていた。
教師は教師らしく、親は親らしく、子供は子供らしくといった、社会的に決められた役割が存在した。
各人は個人としてよりも、まずその役割を果たすことが要求された。
自分の希望を貫いてしまえば、社会が立ち行かない。
だから、子供をおいて家庭を出れば、身勝手だ、親の資格がない、親の愛情がないと、家出でした人間を社会は声高に責めた。
逆に役割を果たしさえすれば、立派な人物だと言われた。

 この時代まで、役割を果たす人間が有用であり、役割のあり方が人間の価値を決めた。
社会的な地位や経済的に豊かなことが、人間性の評価結びつきやすく、必然的に女性や子供は劣位と見られた。
裸の個人よりも、役割などの地位が優先されたので、個人をそのまま評価する契機は生まれなかった。

 それが「クレーマー、クレーマー」で、女性が子供を棄てて社会性に生きても良いのだ、と宣言された。
女性が子供を棄てても、身勝手だとは言われなくなった。
しかし、当時、女性が男性と対等になると言う、新しい社会的な正義に生きるがゆえに、子供を棄てることが辛うじて肯定されたに過ぎない。
成人が自分の欲望に従って、子供や家庭を棄てることは、まだまだ否定されている。
一度選んだ役割である以上、それを引受よという社会的な圧力は、まだまだ強い。


 我が国のフェミニズムは、時代がまったく見えていないので、男性を家庭に引きずり込もうとする。
だから、男性が若い女性との恋に走るのを、絶対に肯定しないだろう。
しかし、この映画はそれを肯定する。
それは、情報社会では役割に生きるよりも、たとえ身勝手と見られようとも、個人の欲望に従うほうが、社会的な価値が高いことを知っているからだ。
情報社会では、個人的な頭脳労働が社会を支える。
頭脳労働こそもっとも大切であり、頭脳労働の解放なくして、社会の生産性は語れない。

 役割に生きていた時代なら、肉体労働が主流だったから、頭脳を解放しなくても社会は成り立っていた。
しかし、役割を云々することは、頭脳の働きに枷をはめることである。
父親とか母親といった役割の押しつけは、個人の生き方を拘束してしまう。
ただ個人の生き方が、裸のまま差し出され、それを肯定しなければ、社会的生産性は低下する。
個人とは裸の精神以外の何物でもない。

 頭脳労働とは、大量生産的な労働には適さず、きわめて個人的なものだ。
頭脳労働の解放のためには、欲望を含めた個人の発想を、無条件に認める必要がある。
親とか子供といった役割を、個人に強制することは、自由な頭脳の働きに制限を加えることだ。
だから、自由こそ尊重されなければならない。
今やっとフェミニズムの主張した人間解放が、実現されようとしている。

 ニルスの不倫がばれたとき、妻のマリーは夫を殴打して軽蔑する。
工業社会の価値観では、不倫した方が悪者である。
しかし、夫がセシリを選ぼうとすると、マリーは出ていかないでくれと泣いて謝る。
正しい者が悪者に謝らざるを得ない。
女性が解放される以前は、これが真実だった。
これは並の女性監督ができる演出ではない。
およそ我が国のフェミニズムからは、想像もつかない描写である。

 女性が社会的台頭を果たした今、少なくとも男女間に強者弱者の関係はない。
だから、家族を担うのは、男女平等に負わされる。
フェミニズムは女性に自由をもたらすだけではない。
女性に経済力がなければ、男性は女性を対等に扱えない。
男女が平等だからこそ、男性にも自由が手に入った。役割に縛られる限り、男女ともに自由とは言えない。
この映画は、監督が自分で立案している。
この監督の視線は、完全に情報社会化している。

 娘のスティーネは、自分が失恋したことも手伝って、男女間にきわめて神経質になっている。
そこへ父親の家出である。
彼女は父親を問いつめ、セシリの家に家庭を毀さないくれ、と言いに押し掛ける。
しかし、彼女もすでに恋愛感情を知る年齢になっている。
セシリの様子から、恋愛感情の強さがただならないものであることを知り、父親を1人の男として見るようになる。

 スティーネはセシリの家から戻ると、父親に謝罪する。
そして、握手で仲直りができたかと思う瞬間、父親の男性としての面を発見する。
ニルスは父親として役割よりも、セシリとの恋を選ぶと、直感的に理解してしまう。
もちろん、彼女はニルスを許すはずがない。
ここでは子供と父親という関係と、1人の人間同士という関係が、複雑に錯綜している。
女性の自立が、なぜ子供の問題を引き起こすのか、ほんとうに理解できる。

 ヨアヒムに対する描き方も、なかなか鋭い。
おそらく突然の事故で、首から下の神経が麻痺したら、自己を統一できず、ああした対応になるだろう。
そして、もちろん性的能力も失われた。
そんな彼は、セシリとの別離を選ぶ。
23歳のセシリは、今後の長い人生がある。
彼女が恋人という役割から、妻という役割へと継続すれば、彼女は一生にわたって、ヨアヒムの世話をしなければならない。
もちろん彼女の性的人生は、まったく閉ざされることになる。

 実際に恋人が、このような状態になったとき、相手はどのような態度を取ればいいのか、決まった最適解はない。
立ち直った後のヨアヒムのような態度は、おそらく常人にはとれないだろう。
ヨアヒムの態度が望ましいのだろうが、これだけ冷静な判断ができるだろうか。
彼の態度を肯定するために、建前的に描いている部分もあるだろうが、きわめて冷静な視線に驚嘆する。


 この監督は、性的な欲求も含めた全的な人間を肯定する。
それは個人の解放こそ、今後の社会を支えるに不可欠だから、頭脳と欲望を分離できない以上、欲望も肯定せざるを得ない。
頭脳と欲望を分離したら、役割といった建前の世界に戻ることになる。
フェミニズムを体験した女性は、役割の世界には戻れない。
男女が等価な今、男性の欲望を否定することはできない。
男性の欲望を否定すれば、女性も欲望が否定される。

 女性が哲学を語り始めた。そう感じさせる映画である。
いま我々は、フェミニズムの収穫を手にし始めた。
近代へはいるときに、時代に適応できずに、沈んでいった多くの人がいたように、後近代への適応でも困難が伴う。
近代にはいるときには、人間として自立したのは、市民といわれる男性だけだった。
それが今では、残された人口の半分が自立したのだから、ほんとうに厳しい時代になる。

 何と厳しい映画であろうか。
恋愛を甘美なものと見たがるが、恋愛の裏には厳しい競争がある。
人を愛することは大切だが、そんなことはすでに誰でも知っている。
恋愛から人間関係が始まっても、その人間関係を維持するのは困難なことだ。
維持のためには、不断の努力が必要である。
しかし、この映画のように努力していても、ライバルの登場によって、たちまち棄てられて関係は破綻する。
女性が自立している以上、男性の心変わりを責めることはできない。

 恋愛の自由市場は、関係の維持に不断の努力を要求しながら、努力の結果を保障しない。
恋愛の自由市場は、強者と敗者がはっきりしている。
見合い結婚があった時代、夫や妻という立場が、男女の行動を律した。
夫や妻という役割を演じれば、社会はその人間を充分に認めた。
父親とは、まず稼ぎだった。
だから、稼いでくれば、及第点がついた。

 我が国のフェミニズムは、父親が稼ぐ存在であるだけでは許さない。
男性には稼ぐ役割と、個人としての生き方を要求している。
女性も役割から脱するなら、稼ぎがなければならないし、個人としての魅力を要求される。
見合いが消滅した社会では、恋愛が男女をつなぐ。
しかし、恋愛では、役割が人間を支えない。
そこまで判っていながら、この監督は恋愛の自由市場を肯定し、ニルスとセシリの恋を肯定する。

 役割に支えられていた精神が、むき出しにされるのだから、冷たい風は直接に心を襲う。
役割が人間を支えなくなるとは、自己の精神は精神自体が支えることを意味する。
精神自体が精神を支えるとは、精神だけで立つことだから、一種の自己矛盾である。
裸にされた精神とは、頭脳が肉体を支えることだ。
神経を病む現象が頻出するだろう。
自由とは本来的に孤独で過酷なものだ。
孤独を引き受ける覚悟がなければ、恋愛は語れないのだが、この監督の目はそこまで届いている。

 役割に生きた時代には、家族が「家」をつくって生きざるを得なかった。
そして、家が個人を守った。
父や母の役割が、個人を消し去っても、家を保つ限り、人間は生活ができた。
家は社会福祉制度だった。
しかし、近代では家制度は否定され、個人が社会に放り出された。
そこで、家に代わって社会保障制度が個人を守るようになった。

 核家族も終焉しようとする今、老人を家族が保護できなくなったので、介護保険ができた。
核家族も分解すれば、子供の保護が不可欠になる。
この映画でも、スティーネが家族を壊さないでくれという。
いまだ子供を育ている機能は、家庭が担っている。
しかし、個人の肯定は、子育てを社会化せざるを得ない。
それがこの映画からも良く伝わってくる。

 ドグマは好みではない。
しかし、この映画では、照明不足のざらついた場面が、心理描写として上手く使われており、あまり抵抗感がなく見れた。
やはり、手法や描き方よりも、何を描くか、主題こそ最大の問題である。
如何に描くかではなく、何を描くかこそ、時代を切り開くうえでもっとも大切だと、改めて確認した。

 1960年代には、我が国と西洋諸国は、女性の解放=人間の解放において同じ位置にいた。
しかし、何と差がついてしまったことか。
映画は大衆に支えられる。
この映画がデンマークで大喝采を浴びたというのと、我が国の現状は比較のしようがない。
それにしても、女性が時代を切り開く力をもった。
本当に衝撃の作品だった。
英語のタイトルは、「Open Hearts」 
2002年デンマーク映画 (2004.1.30)                    河畔望論へ

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