タクミシネマ      私の中のあなた

☆☆ 私の中のあなた
ニック・カサヴェテス監督

 重く先鋭的な主題を、楽しく笑わせ泣かせて、映画を見せる。
アメリカ映画は難しい主題をエンターメイントする能力において、もはや他者の追随を許さない。
この映画も、近代の限界と、生と死をめぐって、ぎりぎりと格闘を続けている。
ちょっと甘いけれど、星を2つ献上する。

Still of Jason Patric, Sofia Vassilieva and Abigail Breslin in My Sister's Keeper
IMDBから

 弁護士のサラ・フィッツジェラルド(キャメロン・ディアス)は、夫・ブライアン(ジェイソン・パトリック)と長男ジェシー(エヴァン・エリングソン)、長女ケイト(ソフィア・ヴァジリーヴァ)との4人暮らしだった。
2歳のケイトが白血病になってしまった。
唯一の治療法は遺伝子操作によって妹をつくり、血縁の妹から組織を移植することだった。

  現代の生殖医療は、驚異的である。
受精卵をチェックして、ドナーになりうる妹を人工授精で誕生させた。
妹のアナ(アビゲイル・ブレスリン)は、誕生直後の臍帯血からはじまって、さまざまな組織を提供させられてきた。
アナが11歳になったとき、腎臓を提供させられそうになった。
しかし、アナは提供を拒否して、母を被告として裁判に訴える。

 母親のサラは、ケイトの命を助けることは家族全員の願望であり、アナも依存がないと信じて疑わなかった。
そこへ訴状が届いたのだ。
彼女は11歳の自分の娘から、訴えられたことに驚く。
しかし、サラは自分の信じる道を突き進む。
却下判決を求めて、娘にたいして敢然と立ち向かう。

 アナの訴訟理由は、腎臓をとってしまうと、体力が落ち平常の生活ができなくなる、というものだ。
いままで多くの組織を提供してきたが、これらは母親の一存で行われてきたもので、これからは自分の身体については自分で決めたい、とアナは言う。
それにたいして、サラは11歳の子供は無権利者であり、子供の行動は親権者が決めるのだという。

 白血病は恐ろしい病気である。
いまだ治療法が無いに等しい。
ケイトはアナからの提供を受けて、13歳の今まで生きてきた。
その13年間も手術につぐ手術で、病院と自宅との往復だった。
母親のサラは、手術に明け暮れる日々でも、生きていくことに価値があると信じて疑わない。

 生命の無前提的な肯定は、近代の思想である。
死すべき時期にきても、現代医療が生き延びさせてしまう。
延命治療がなされるのも、生きること自体が肯定されているからだ。
植物人間になっても、救命装置を外すことはできない。
ミリオンダラー ベイビィ」も描いていたように、それは殺人である。
尊厳死とか安楽死は、きわめて例外的な場合にかぎって、認められるだけだ。

 
 サラは近代思想の権化である。
どんな状態でも、とにかく生きることに価値をおく。
生きさせることが、母親の愛情なのだ。
しかし、生きさせられているケイトの気持ちは、ケイトが2歳と小さかったことも手伝って、確認されたことはない。
母親の近代的な信条が、無前提的に子供へと押しつけられていた。
生きよ、という近代の命令は過酷でもある。

 ケイトは手術につぐ手術で、生と死を見つめ続けてきた。
薬の副作用にも耐えてきたし、手術にも耐えてきた。
13歳ではあっても、大人たちよりはるかに真剣に死と直面してきた。
明日を知らない自分の生命は、彼女の人生観を鍛え、死を受け入れる準備が整いつつあった。
同じような病気を抱えるテイラー(トーマス・デッカー)と出会ったことも大きかった。

 不治の病気を抱える人は、生死を冷静に見つめている。
若いテイラーは、治療の副作用で吐いても、化学治療に耐えてきた。
死を恐れておらず、死に対しても平常心で対応する。
彼もやがて死んでしまった。
しかし、普通の近代人は、死を恐れ、死を考えない。
死は全面的な敗北であり、死は悪なのだ。
サラがまさにそうだった。
だから、サラは娘の身体を使って、近代思想を体現していたのだ。

 心優しいアナは、姉のドナーになることが嫌なわけではない。
臓器提供が嫌なのではなく、ケイトが人工的な生を拒否し始めたのだ。
他人の身体を貰ってまで生きることに、疑問を感じ、手術にあけくれる人生を閉じようとしたのだ。
しかし、ケイトには、近代人であるサラの愛情もわかる。
サラの愛情を拒否するつもりはない。
そこで、アナを開放し、自分が死ぬために、アナに裁判をおこさせたのだ。

 この映画は、近代の限界を鋭く描いている。
人間の命は有限である。
死は必ずやってくる。
生きることに没頭し、死を敗北と考える近代人たち。
そうした近代の思想の限界を、この映画は子供の口から語らせている。
死の前日、ケイトは他の家族を帰宅させて、母親とだけベッドのうえで過ごす。
そのとき、ケイトは母親を後ろから優しく抱いている。
子供が親を抱くこのシーンが、主題を良く物語る。

 
 大人の近代人を、子供たちが許し、導いている。
ここでは子供が教える者で、大人たちが教えられる者になっている。
現代アメリカ映画があつかう、子供が大人を教えるという構図が、この映画でもしっかりと使われている。
てらいのない子供たちは、素直に人生をみつめている。
長男のジェシーも失語症になりながらも、人間関係に敏感なセンスを見せる。

 アナの弁護を引き受けるのは、てんかんの持病をもつ弁護士キャンベル(アレック・ボールドウィン)である。
また、裁判官をつとめるデ・サルヴォ判事(ジョーン・キューザック)も、最近事故で子供失っている。
これらの設定も、実に良く効いている。

 母親が近代人を体現しているのも、いささか皮肉的ではあるが、「スタンド アップ」や「フライトプラン」と同様に女性の自立を物語るのだろう。
近代で自立した男性に続いて、女性も自立してしまった今、残るのは子供である。
子供の自立は、やや違う形で指向されているように思う。

 近代は神に逆らって、完全無欠を追求してきた。
人間も同様である。
健康で何の病気ももたず、結婚して子供をもち、完全な家庭を営む。
そんな人間を理想としてきた。
しかし、現実は違う。
障害や持病をもっている人は多いし、いまや核家族は標準でも何でもない。
個人個人が皆それぞれに違う。
それで良いのだ。

 近代は一つの理想を決めすぎた。
幸福は人間の数ほどある。
障害者にも幸福はあるし、障害者だという理由で不幸なわけではない。
そうした柔軟な思考が、死をも受け入れる、大きな人間を育ててきた。
生と死は永遠のテーマだが、50歳のニック・カサヴェテスが、こうした思想を体得しつつあるのだろうか。

 出演者全員が、とても上手い。
何でこんなに自然な演技ができるのだろうか。
白血病のケイトも、無口なジェシーも、みな上手い演技である。
人間の命をどう考えるか、きわめて重い主題を描いている。
 原題は「My Sister's Keeper」 である。
2009年アメリカ映画

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