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重く先鋭的な主題を、楽しく笑わせ泣かせて、映画を見せる。 アメリカ映画は難しい主題をエンターメイントする能力において、もはや他者の追随を許さない。 この映画も、近代の限界と、生と死をめぐって、ぎりぎりと格闘を続けている。 ちょっと甘いけれど、星を2つ献上する。
弁護士のサラ・フィッツジェラルド(キャメロン・ディアス)は、夫・ブライアン(ジェイソン・パトリック)と長男ジェシー(エヴァン・エリングソン)、長女ケイト(ソフィア・ヴァジリーヴァ)との4人暮らしだった。 2歳のケイトが白血病になってしまった。 唯一の治療法は遺伝子操作によって妹をつくり、血縁の妹から組織を移植することだった。 現代の生殖医療は、驚異的である。 受精卵をチェックして、ドナーになりうる妹を人工授精で誕生させた。 妹のアナ(アビゲイル・ブレスリン)は、誕生直後の臍帯血からはじまって、さまざまな組織を提供させられてきた。 アナが11歳になったとき、腎臓を提供させられそうになった。 しかし、アナは提供を拒否して、母を被告として裁判に訴える。 そこへ訴状が届いたのだ。 彼女は11歳の自分の娘から、訴えられたことに驚く。 しかし、サラは自分の信じる道を突き進む。 却下判決を求めて、娘にたいして敢然と立ち向かう。 アナの訴訟理由は、腎臓をとってしまうと、体力が落ち平常の生活ができなくなる、というものだ。 いままで多くの組織を提供してきたが、これらは母親の一存で行われてきたもので、これからは自分の身体については自分で決めたい、とアナは言う。 それにたいして、サラは11歳の子供は無権利者であり、子供の行動は親権者が決めるのだという。 白血病は恐ろしい病気である。 いまだ治療法が無いに等しい。 ケイトはアナからの提供を受けて、13歳の今まで生きてきた。 その13年間も手術につぐ手術で、病院と自宅との往復だった。 母親のサラは、手術に明け暮れる日々でも、生きていくことに価値があると信じて疑わない。 生命の無前提的な肯定は、近代の思想である。 死すべき時期にきても、現代医療が生き延びさせてしまう。 延命治療がなされるのも、生きること自体が肯定されているからだ。 植物人間になっても、救命装置を外すことはできない。 「ミリオンダラー ベイビィ」も描いていたように、それは殺人である。 尊厳死とか安楽死は、きわめて例外的な場合にかぎって、認められるだけだ。 サラは近代思想の権化である。 どんな状態でも、とにかく生きることに価値をおく。 生きさせることが、母親の愛情なのだ。 しかし、生きさせられているケイトの気持ちは、ケイトが2歳と小さかったことも手伝って、確認されたことはない。 母親の近代的な信条が、無前提的に子供へと押しつけられていた。 生きよ、という近代の命令は過酷でもある。 ケイトは手術につぐ手術で、生と死を見つめ続けてきた。 薬の副作用にも耐えてきたし、手術にも耐えてきた。 13歳ではあっても、大人たちよりはるかに真剣に死と直面してきた。 明日を知らない自分の生命は、彼女の人生観を鍛え、死を受け入れる準備が整いつつあった。 同じような病気を抱えるテイラー(トーマス・デッカー)と出会ったことも大きかった。 若いテイラーは、治療の副作用で吐いても、化学治療に耐えてきた。 死を恐れておらず、死に対しても平常心で対応する。 彼もやがて死んでしまった。 しかし、普通の近代人は、死を恐れ、死を考えない。 死は全面的な敗北であり、死は悪なのだ。 サラがまさにそうだった。 だから、サラは娘の身体を使って、近代思想を体現していたのだ。 心優しいアナは、姉のドナーになることが嫌なわけではない。 臓器提供が嫌なのではなく、ケイトが人工的な生を拒否し始めたのだ。 他人の身体を貰ってまで生きることに、疑問を感じ、手術にあけくれる人生を閉じようとしたのだ。 しかし、ケイトには、近代人であるサラの愛情もわかる。 サラの愛情を拒否するつもりはない。 そこで、アナを開放し、自分が死ぬために、アナに裁判をおこさせたのだ。 この映画は、近代の限界を鋭く描いている。 人間の命は有限である。 死は必ずやってくる。 生きることに没頭し、死を敗北と考える近代人たち。 そうした近代の思想の限界を、この映画は子供の口から語らせている。 死の前日、ケイトは他の家族を帰宅させて、母親とだけベッドのうえで過ごす。 そのとき、ケイトは母親を後ろから優しく抱いている。 子供が親を抱くこのシーンが、主題を良く物語る。 大人の近代人を、子供たちが許し、導いている。 ここでは子供が教える者で、大人たちが教えられる者になっている。 現代アメリカ映画があつかう、子供が大人を教えるという構図が、この映画でもしっかりと使われている。 てらいのない子供たちは、素直に人生をみつめている。 長男のジェシーも失語症になりながらも、人間関係に敏感なセンスを見せる。 アナの弁護を引き受けるのは、てんかんの持病をもつ弁護士キャンベル(アレック・ボールドウィン)である。 また、裁判官をつとめるデ・サルヴォ判事(ジョーン・キューザック)も、最近事故で子供失っている。 これらの設定も、実に良く効いている。 近代で自立した男性に続いて、女性も自立してしまった今、残るのは子供である。 子供の自立は、やや違う形で指向されているように思う。 近代は神に逆らって、完全無欠を追求してきた。 人間も同様である。 健康で何の病気ももたず、結婚して子供をもち、完全な家庭を営む。 そんな人間を理想としてきた。 しかし、現実は違う。 障害や持病をもっている人は多いし、いまや核家族は標準でも何でもない。 個人個人が皆それぞれに違う。 それで良いのだ。 近代は一つの理想を決めすぎた。 幸福は人間の数ほどある。 障害者にも幸福はあるし、障害者だという理由で不幸なわけではない。 そうした柔軟な思考が、死をも受け入れる、大きな人間を育ててきた。 生と死は永遠のテーマだが、50歳のニック・カサヴェテスが、こうした思想を体得しつつあるのだろうか。 出演者全員が、とても上手い。 何でこんなに自然な演技ができるのだろうか。 白血病のケイトも、無口なジェシーも、みな上手い演技である。 人間の命をどう考えるか、きわめて重い主題を描いている。 原題は「My Sister's Keeper」 である。 2009年アメリカ映画 |
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