タクミシネマ        アメリカン・ビューティー

☆☆ アメリカン ビューティ  サム・メンデス監督

 期待していた映画が、期待にたがわず素晴らしい出来だった。
この映画と巡り会えたことは、今年の最大の幸福だといっても良いだろう。
主題といい、脚本といい、撮影といい、実に素晴らしかった。
そして、この今日的で難解な映画に、アカデミー賞作品賞他四部門で、オスカーを与えたアメリカ映画人たちの見識の高さに脱帽の他はない。
無条件に星二つを献上する。

アメリカン・ビューティー [DVD]
 
劇場パンフレットから

 結婚後十数年、レスター(ケビン・スペイシー)は広告会社に勤務する平凡なサラリーマン。
きちんと稼いで一家の生活を支えてきたのに、家族の誰からもレスターの働きが評価されない。
奥さんのキャロリン(アネット・ネニング)は、不動産会社に勤務しているが、彼女の稼ぎだけでは生活できないようだ。
子供のジェーン(ソーラ・バーチ)は高校生である。
キャロリンは自分のキャリア上昇に執着し、ジェーンは父親とは口もきかない思春期の女の子。

 彼等の家庭はすでに崩壊しており、各個人がバラバラに生活していた。
キャロリンはジェーンが高校のチアーリーダーになったので、レスターを誘って試合の応援を見に行く。
不本意ながら同行したレスターは、そこでジェーンの友だちである美少女アンジェラ(ミーナ・スバーリ)の虜になる。

 アンジェラはレスターにまんざらでもない。
ジェーンとアンジェラの話を立ち聞きしたレスターは、アンジェラの希望に自らをあわせるべく、肉体改造のボディービルに励む。
そんな時、彼はレイオフにあう。
しかし、高校生を愛する自由に目覚め、開き直ってしまったレスターに怖いものはない。
上司を脅して、6万ドルの退職金をせしめてくる。
そんなとき隣に、海兵隊の大佐フィッツ(クリス・クーパー)が、奥さん(アリソン・ジャニー)と息子のリッキー(ウェス・ベントレー)をともなって引っ越してくる。
フィッツは規則を愛しマッチョを演じる男だが、内心はナチに心酔し、ゲイに憧れる変人だった。
しかも自分では、自分のゲイ的な資質を認めたくないという屈折した心理にいた。

 この映画は、二つの家族と一人の高校生をめぐって進行する。
レスターの家族もフィッツの家族も、各個人が自分の関心にだけ走り、ともに良き家族の形をなしてはいない。
多くの現代家族が、おかれている状況から映画は出発し、そのなかで個人が動く状況を、美しい映像で克明に追っていく。
最近のアメリカ映画が追っている家族探求を、一歩進めたものである。
かつての核家族のように、各個人が家族の一員としての役割を果たす時代は終わっている。
それがこの映画の基本的な認識である。だから、核家族の崩壊は決して暗い悲劇ではない。

 古き良き核家族は、父親役を果たす男性と母親役を果たす女性、そして子供の役割を果たす未成年者から成り立っていた。
男性にしても女性にしても、個人である前に父親であり母親だった。
しかし、女性も一人前の働き手となった情報社会では、事情はまったく違う。
母親という女性が、労働者として社会的に男性と拮抗する存在になったことは、家庭内においても女性は男性と同じ立場に置かれることになった。
男女には、子供を産ませる生むという違いがありながら、男女の社会的な存在が等価になったのだから、等価性は家庭内へと浸透せざるを得ない。
女性が女性として自立すれば、母親役を演じ続けることはできない。
女性も一人の個人へと還元されてしまうのは当然である。

 女性が母親役から離れれば、男性が父親役にとどまる必然性はない。
いままで成人男性と女性が、父親役と母親役をつとめたから、未成年者は子供役を演じたのだ。
両親が両親の役を降りれば、子供は未成年者であってももはや両親の子供ではなく、一人の個人である。
ましてや、未成年者といえども、いまや経済力がある。
ここで家族が、それぞれの役割を演じる必然性は、まったくなくなってしまった。
こうした家族をつなぐのは、個人として互いにたいする関心と愛情だけだが、ちょっとした諍いが起きれば、家族の関係はいつでも解消される運命にある。

 核家族は、男性が女性や子供を養うという役割があった。
経済的な必要性が、核家族を最後のところで繋いでいたから、男性が飲んだくれでも、女性が家事に不適格でも、家族は成り立った。
経済的な必要性によって、愛情が冷めても家族は結集を続けた。
極端に言えば、愛情がなくても経済的な必要性があれば、家族は家族たり得た。
だから、経済的な扶養をしない男性や、家事を担当しない女性には、社会的な叱責がとんだ。
もちろん、家庭的な責任を果たす両親から逸脱する子供には、子供役を果たせという社会的な圧力がかかり、子供は家庭内にとどまるように強制された。
こうした枠組みは、情報社会化によってすべて雲散霧消した。
家族を繋ぐ経済的な必要性は、もはやまったく存在しない。
必要性のないここでは、個人が生の形で露出せざるを得ない。

 各人が果たすべき役割からの適不適で、正否が計れた核家族の時代から、個人が個人のままで存在する単家族の時代へと、時代は転換している。
情報社会へと進む時代のなかで、核家族はもはやありない。
単家族化は不可避だとしたうえで、この映画は家族の構成員たちの新たな関係を探っている。
女性の自立を求めるキャロリンには精神的な不安・ストレスと不倫を、高校生に憧れるレスターには死を与え、海兵隊のフィッツ大佐には内心と外見の分離を与える。
しかも、リッキーの母親つまりフィッツの妻は、神経症になりながら家族を続けている。
美貌と肉体に自信があり、セックス経験も豊富だったはずのアンジェラは、いざレスターに迫られると処女だと告白させる。

 経済的な自立は、精神的な不安やストレスがともなうものであり、男性は今までそれに耐えてきた。
女性も自立をめざす以上、精神的な不安やストレスにさらされるのは当然である。
経済的な自立と引き替えに、男性には影の文化として浮気が許されてきた。
自立した女性が不倫に走るのも、また当然である。
子供には経済的な自立志向はないはずだが、親役割を果たす大人がいなくなった家庭では、子供が自己を探して浮遊するのも必然である。
自立は経済性を内包するから、この映画でもジェーンは子守で3千ドル稼いでいたし、リッキーに至っては麻薬の密売で4万ドルを稼いでいた。
しかしこの映画では、一見怪しげなジェーンとリッキーのカップルが、最も心暖かい人間なのである。

 この映画に登場する人たちは、自分の好奇心や生き方にだけ従っている。
レスターのアンジェラへの恋は自己願望への陶酔であり、自己完結的である。
それにたいして、リッキーとジェーンのカップルだけは相互関係が成立している。
自己の欲望を肯定しようとする人たちに対して、リッキーとジェーンは互いを思いやり、自分の価値規準が他者という自分以外の人間にある。
ここが他の人たちとは、決定的に違うのである。
他者を求める二人が、リッキーのように一見異常に見えようとも、本当は正常であるというのは実に納得できる。
個が個としてあるだけでは、人間は人間たり得ないから、関係性を否定することはできないのだ。
そうは言っても、この二人とて今の愛情が冷めれば、他の人たちと同じになってしまうの言うを待たない。

 経済的な必要性が人間関係を確保した核家族の時代、それは実に幸せな時代だった。
核家族の時代には役割さえ果たせば、本人が努力しないでも、円滑な人間関係が維持できた。
役割や地位が人間関係を保証したのだ。工業社会化しつつある東南アジアでは、定期的な収入があると言うだけで、父親として男性は一目置かれる。
しかし情報社会では、役割を果たそうにも果たすべき役割がない。
そこでは他者を愛する心だけが、人間関係を繋ぐのである。
それは生き物の形をしているものを愛するという、純粋な愛情である。
経済性など何の支えもない精神性だけが、人間関係をつくり維持するのである。
純粋な愛情の時代であることを、この映画の製作者たちはよく判っている。
そして、それを評価してアメリカの映画人たちは、この作品にオスカーを与えた。

 撮影の素晴らしさにも触れておきたい。
題名にもなっているアメリカン・ビューティとは、バラの花の名前らしい。
このバラの花の撮影には、fsxを使っているようだが、他はオーソドックスなカメラワークである。
色彩を押さえ、画面構成がしっかりしている。
レスターとリッキーがマリファナを吸うシーンなど、それでも充分に美しい画面。
ビニールの袋が風に舞うシーンは、何でもないようだが意味深長でしかも美しい。
時間の経過を感じさせるこのシーンは、孤独ななかにも自由に浮遊する現代人の心象風景の表現となっていた。

 カットの絵画的な美しさもさることながら、ライティングが秀逸である。
キャロリンがカーテンを背に逆光でアップになる。
人物は当然つぶれるのだが、弱い光を顔だけにあてて、顔の演技だけは見せる。
それが不自然ではない。
また、リッキーやフィッツの顔へのライティングが、無言の言葉となって響き、顔の表情が雄弁な台詞と感じさせる。
決して新しくはないが、この丁寧な撮影は映画のお手本だろう。
撮影したコンラッド・I・ホールは、70歳を越えているとか。
古い職人芸なきらめきに納得である。

 出演者の演技も上手かったが、ケビン・スペイシーはやりすぎである。
この映画に力が入っているのはよく判るが、見得を切ってしまっており、臭い演技になっている。
むしろ、アネット・ベニングの計算された演技やクリス・クーパーの押さえた演技を評価したい。
リッキーを演じたウェス・ベントレーの今後が楽しみである。
おそらく若い監督だと思うが、新しい才能はアメリカで開いている。

1999年のアメリカ映画。


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