タクミシネマ          デンジャラス・マインド 卒業の日まで

  デンジャラス マインド  卒業の日まで   
 ジョン・N・スミス監督  

TAKUMI−アマゾンで購入する
デンジャラス・マインド [DVD]
 この映画を作らせた動機は、男性の子育てなど次世代の育成と同じように、今のアメリカ映画に共通の家族に関する意識である。
この映画を、落ちこぼれた子供たちを立ち直らせようとする、女性教師の奮闘ものと見るのは一面的な見方である。

 農耕社会は差別の社会ではあったが、差別は同時に保護でもあった。
だから、共同体の掟に従うかぎり、共同体が個人を守った。
そして共同体のなかで、与えられた立場に適合している限り、幸福な人生が約束されていた。

 しかし、産業革命以降の工業社会が共同体を壊し、人間をむき出しにし、個人を裸にした。
工業社会の男性たちには、身分や血筋によらず、個人の能力や努力で、各自の豊かな人生が獲得できるように見えた。
農耕社会では陽のあたらなかった男性たちには、工業社会は希望に満ちたものに見えた。

 農耕社会より工業社会のほうが、社会的な生産力が高いので、社会全体の生活水準があがった。
工業社会になると、貧乏人も農耕社会では想像もつかないような裕福な生活ができた。
健康で働きさえすれば、毎日の食事は豪華になり、新しい衣服、清潔な住まいが、誰にでも入手できた。

 病気などで体が壊れると、農耕社会では死を待つだけだったが、工業社会では病院が安い費用で利用できる。
今日では働けなくなっても、生活保護がある。
生活保護を受けることは、人間の尊厳は踏みにじられるかも知れないが、何とか生きていくことはできる。

 工業社会はますます進み、その発展を止めない。
そして、情報社会へと入る。工業社会は男性だけを解放し、女性は男性の従属物とした。
しかし情報社会では、すべての個人を一人一人に個化する。
男性も女性も、同じ一人である。
工業社会が男性に約束したように、情報社会では女性も自立した人間となれば、豊かな生活を約束している。

 今や言葉の正確な意味で、誰でも個人の能力と努力で、豊かな生活を入手できる。
個人化した情報社会では、貧乏人といえども、農耕社会や工業社会では想像もできないような贅沢が待ちかまえている。
農耕社会から工業社会への転換期に適応できず、没落していった人々がたくさんいた。
情報社会への転換期にも、同じように適応できない人々が発生する。

 絶対的な貧困はなくなるとしても、どんな社会になっても貧富の差は残る。
情報社会になって、社会的な生産力は向上するから、むしろ様々な分野で上下の開きが大きくなる。
出世したり、お金持ちになったりと、光のあたる部分にいる人々と、落ちこぼれてしまう人々のあいだが開く。

 もちろん、成人たちのあいだにも、絶望的な開きができる。
大企業の会長は五億円の年収、かたや、ボランティアーの炊き出しに頼っているホームレス。
いくら実力の社会だといっても、この差は単に個人の能力や努力によるものだけではない。

 黒人でしかも片親の子供とか、ヒスパニックの子だくさんの家庭に生まれた子供とか、彼らがハーバードやイェールを卒業できるとは思えない。
他に高額所得が望めるのは、スポーツ界や芸能界であるが、それとてすべての人間に開かれているわけではない。
現実的には生まれによって、個人の一生が決まってしまうのである。

 個化する情報社会で、アキレス腱として残るのは、次世代の育成である。
情報社会は工業社会以上に、個人の能力や努力次第で、豊かな生活が入手できるはずである。
しかし、個人の能力や努力ではどうにもならない事情によって、人生が決まっていることが明白になったら、情報社会が崩壊する。

 工業社会では学校を作って、次世代の教育にあたったが、情報社会はどうすればいいのか。
次世代の育成は、情報社会が解決しなければならない枷である。
アメリカは、次世代の教育が枷であることを知っている。
だから、家族や世代を考える映画が、実にたくさんつくられている。

 情報社会になって、立身出世などの利益誘導、つまり勉強しないと幸福な生活ができないぞという脅しが利かなくなった。
出世しないふつうの生活がすでに裕福だから、立身出世は勉強の動機付けにはならない。
それでも教師は勉強させなければならない立場にいるが、叱咤激励は役に立たないのである。

 ここでの鍵が、誉めること=個人の能力を認めることと、愛すること=体を接触させることであることは、間違いないだろう。
教育とは、体罰や管理の強化では決してないと、この映画は力説している。
もちろん、現実はこんなに簡単に子供の気持ちをつかめるわけはない。
むしろ、教師が教室全員の子供の気持ちをつかむのは恐ろしいことですらある。

 一人の教師と大勢の子供たち、という教育制度が適合的ではなくなっている。
おそらくこの映画の製作者たちも、それは知っているだろう。
しかし、誰もそれに代わる制度を、いまだ見つけられない。
そうしたなかで、この映画を批判するのは過酷である。

 感心したことが二つあった。
まず第一は、教師が絶対に子供たちを叱らないことである。
それでなくても、充分に萎縮している子供たちをいまさら叱っても、ますます心を閉じさせるだけである。
だから教師は子供たちを認め、誉めて誉めて誉めまくる。

 それともう一つは、アメリカでは当たり前なのであろうが、子供たちが実に個性豊であることである。
教室内で帽子をかぶっているものもいれば、へそだしルックの子もいる。
ありとあらゆる服装や化粧が教室を満たしている。
そうした個人の主張を教師は、当然として受け止めている。
これだけでも、教員に制服を着せようとか、ディパックを禁止しようとするわが国より、はるかに柔軟である。

 生徒しかも優秀な黒人生徒が妊娠したことを、教師はそれも生徒の人生の一つの選択としてとらえていたことは教えられる。
妊娠は伝染病だという管理職の発言も、現実かもしれない。
学校に一人でもお腹の大きな子供が登校していると、その子がヒロインになって、次々に妊娠する子供が発生するというのは体験にもとづく発言だろう。
けれども、生徒の妊娠を隠し、否定するところからは何も生まれない。

 教師ミッシェル・ファイファーが中絶し、黒人の生徒が生もうとしているのは、考えさせられる設定である。
白人の教師は教育もありながら、離婚し中絶した。
黒人の女生徒は、十代の妊娠が何を意味するか知りながら、生もうとしている。
おそらく、彼氏とは結婚しないだろう。
結婚しても離婚することは見えている。
しかし、生もうとしている。

 考えてみると、農耕社会では身分や出自による差別がまかり通っていた。
だから、お金持ちがいい思いをして、貧乏人は社会の底辺で生活苦にあえいでいたといわれる。
本当にそうだったのか、もう一度歴史を見直してみる必要があるだろう。

 情報社会では、人間の精神活動というほんとうに頼りないものにすがる以外には、先がないのだ。
人間の精神活動の別名を、愛情という。
わが国では、立場や身分などの精神活動以外のものが、個々の人間を支えているから、愛をうたわなくても生活ができる。
親は親としての努めをはたすことが、子供は子供としての努めをはたすことが、期待されている。
わが国では立場をはたすことが、人間関係を円滑にすすめる秘訣である。
農耕社会の影響が残る工業社会のわが国では、いまだ愛はそれほど必要ではないのだろう。
1995年アメリカ映画。


TAKUMI シネマ>のおすすめ映画
2009年−私の中のあなたフロスト/ニクソン
2008年−ダーク ナイトバンテージ・ポイント
2007年−告発のときそれでもボクはやってない
2006年−家族の誕生V フォー・ヴァンデッタ
2005年−シリアナ
2004年−アイ、 ロボットヴェラ・ドレイクミリオンダラー ベイビィ
2003年−オールド・ボーイ16歳の合衆国
2002年−エデンより彼方にシカゴしあわせな孤独ホワイト オランダーフォーン・ブース
      マイノリティ リポート
2001年−ゴースト ワールド少林サッカー
2000年−アメリカン サイコ鬼が来た!ガールファイトクイルズ
1999年−アメリカン ビューティ暗い日曜日ツインフォールズアイダホファイト クラブ
      マトリックスマルコヴィッチの穴
1998年−イフ オンリーイースト・ウエストザ トゥルーマン ショーハピネス
1997年−オープン ユア アイズグッド ウィル ハンティングクワトロ ディアス
      チェイシング エイミーフェイクヘンリー・フールラリー フリント
1996年−この森で、天使はバスを降りたジャックバードケージもののけ姫
1995年以前−ゲット ショーティシャインセヴントントンの夏休みミュート ウィットネス
      リーヴィング ラスヴェガス

 「タクミ シネマ」のトップに戻る