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主人公は13歳のルリ。ネブラスカの田舎に住んでいるが、母親は男と家出してしまうし、父親も消えてしまう。たった1人で家に取り残されると、彼女はヒッチハイクでラスベガスに行くことにする。途中で悪い男や女にひっかかったり、助けられたりするが、登場する大人たちがいわば世の中を写したものなのだ。男に監禁されて、命を奪われそうになる。何とか助かり、最後には、運命に逆らうと言ってロス・アンジェルス行きのバスに乗る。 2000年頃までだろうか、「クレーマー、クレーマー」から「テルマ アンド ルィーズ」などの女性映画が隆盛をきわめた。女性が自立した後、家庭に残ったのは子供だけになったので、 子供に焦点が移った。「16歳の合衆国」 「ハード キャンディ」 「キャッチ ミー、イフ ユー キャン」 「ゴースト ワールド」 「チェイシング エイミー」 「グッド ウィル ハンティング」などなど子供を主題にした映画は、さまざまな角度から撮られた。 子供を自立させたくても、近代は子供を保護の対象として、1人前の人間とは見なさなくなった。子供の労働は禁止だし、子供のセックスも禁止。子供には参政権がないし、煙草を吸うのもだめ。もちろん1人で契約を結ぶこともできない。女性は1人前だったにもかかわらず、半人前扱いだったから、男性の跡を追って自立できた。しかし、子供は半人前なのだ。子供を保護の対象としてみるのは、まったく正しい。 しかし、子供を半人前の人間としてしか扱わないうちに、「ネクスト」が描くように子供が大人顔負けの活躍をするようになった。コンピューターの世界を見るまでもなく、いまや子供のほうが賢くさえある。そうした空気を感じ取って、子供を主題にした映画が撮られたわけだが、子供が体現する将来像など誰にも想像できない。天国や地獄を描くのが難しいように、現在の大人たちの後追いしか、結局は子供の将来など描けない。そのため、子供映画はすべて消沈した。ここまでは確認できるだろう。 子供の可能性をどう扱うか。子供はどう育つか。大人は子供にどう関われるのか。こうした設問は、すべて大人からのものだ。子供自身が自分で映画を撮って公開しても、結局は現在からの追認でしかない。自立というのは将来に向けてすることだから、可能性を描くことは結局できないわけだ。この映画は、子供の自立する方向を捜すのではなく、子供に預けてしまった。これが最も真摯な対応だろう。 主題を投げ出しているわけだし、映像的に優れているわけでもない。映画自体は何ていうことはないが、おそらく1つの到達点というか通過点という意味で青い星をつける。こんな星の付け方をするのは初めてだし、作品評価ではないので拙い星の付け方なのだろう。 原題は「HICK」 2011年アメリカ映画 (2012.11.27」) |
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