タクミシネマ              グッド・ウィル・ハンティング

☆☆ グッド ウィル ハンティング
 ガス・ヴァン・サント監督

 驚異的な記憶力と、理科系に天才的な才能を持つ男の子ウイル・ハンティング(マット・デイモン)は、愛情を知らずに育ったので、誰に対しても心を開くことができなかった。
愛情を感じる回路が閉ざされた子供で、傷害事件で警察のやっかいになってばかりいた。
今も、保護観察の身で、大学の用務員として清掃をしていた。
しかし仕事の途中で、廊下に書かれた難しい問題を、簡単に解いたのを数学の教授に見られたことから、彼の人生は変わり始める。

 フィールズ賞を受賞している数学のランボー教授(ステラン・スカルスゲールド)は、彼の学問に対する信念が、ウイルの天才的な数学の才能を埋没させることを許さない。
自分以上の才能を持つウイルを、何とか研究者の道に乗せようとする。
彼の個人的な責任で、ウイルの身元引受人となる。
その条件は、彼と数学の時間を持つことと、カウンセリングを受けることだった。

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劇場パンフレットから

 ウイルはカウンセリングを受けるも、カウンセラーをからかうのでカウンセラーには次々と断られて、彼のカウンセリングを引き受ける人がいない。
大学時代の旧友ショーン(ロビン・ウイリアムス)に、ランボー教授は頼みこむ。
ここからは、ウイルとショーンの心理的な対決が、映画の中心になっていく。
ウイルとよく似た子供時代を持つショーンは、自分の全存在をかけて、ウイルと向かい合う。
カウンセラーと患者でありながら、両者は横並びのまったく対等である。

 ウイルの三人の友達、やっとできた恋人スカイラー(ミニー・ドライヴァー)、ショーンそれにランボー教授をめぐって話はすすむ。
ランボー教授との数学の時間はやがて、ウイルがランボー教授より遥かに能力があることを知らされる。
心を開かない天才は、まわりの人を傷つける。
しかし、誰も彼の才能を否定することはできない。
やがてウイル自身も、自分の才能にからめ捕られていきそうになるが、ショーンのカウンセリングが成功し、最後には彼の心は開かれる。

 今年のオスカーでは、脚本賞は間違いないだろう。
今もっとも先端的な映画である。
情報社会の子供は、工業社会の常識が通用しない。
もちろん工業社会の大人より、遥かに優秀である。
この映画は、それをウイルに託して象徴的に描く。
ウイルとランボー教授の対比は極端だが、百年後の人間と今の工業社会の人間との間には、このくらいの乖離はあるだろう。
ここでもウイルとランボー教授は、立場や年令に関係なくまったくの対等である。
対等な横並びの人間関係こそ、情報社会のものである。
横並びだからこそ、愛情だけが両者をつなぐ。

 江戸時代に天才と言われた人たちの才能は、現在の高校生から見れば、驚くには足らずまったく普通である。
当時の数学にしても測量にしても、現在なら常識である。
その時代では傑出していても、百年後から見ればすでに常識である。
これと同じ構造変化が、情報社会への入り口にある今、起ころうとしている。
それに気がつき始めた人がでてきた。
だからこうした映画が作られる。
しかし、科学的な知識がどんなに進歩しようと、人間の心はそんなに変わるものではない。
むしろ、知識が進めば進むほど、人間のあり方が自然から離れるがゆえに、心は安定を失う。

 情報社会への入り口で困惑し、自分の有り余る才能を持てあましている子供たちを、暖かく見つめる映画である。
というより、この映画の原作と脚本は、ウイルを演じたマット・デイモンとチャッキーを演じたベン・アフレックが書いたと言う。
だから、情報社会に一歩足を入れた子供たちから、工業社会の大人たちへの願望的なメッセージである。

 時代の転換点では、新しい社会と古い社会の両方に、身をおかざるを得ない。
多くの大人たちは、今までの社会の常識から抜けきれず、新しい子供たちを異端視しがちである。
しかし、新しい子供たちは新しいがゆえに、自分を律することができず、自閉的になったり、反抗的になったりする。
心の中では、愛情を求めていながら、愛情がどういうものか知らない。
形の判らない愛情を求めてもがく。
なぜなら、愛がないと人間は生きていけないから。

 人間関係を取り結ぶことが困難に見える今日の状況に、この映画は正面から取り組んでいる。
ロビン・ウイリアムスが出演しているが、役者たちも取り立てて上手いわけではない。
台詞こそ下品で過激だが、ベッドシーンだって着衣のままである。
大規模なセットもないし、何も壊れず、お金もかかっているわけではない。
ただ、原作と脚本の同時代性、先鋭性、本質指向性、それだけである。

 アメリカという風土が天才を発見し、許容するにしても、すごい社会である。
誰でもが、自分の信念を持ち、信念を大切にするがゆえに、新たなものが登場したときに、それが評価できる。
ランボー教授は自分の才能の小ささを知らされて、非常に落胆するが、それでも彼はウイルの才能を伸ばすことが自分の使命だと考える。
ここがすごい。
自分の教え子(ウイルはMITの学生ではなく、ただの掃除のバイトである)でもないウイルに、就職の斡旋までし、それをコケにされてもめげない。
ただ才能に信奉する。
しかし、ウイルを彼の良しとする道に進ませようとするのは、工業社会の先輩の姿である。

 ショーンの行動も誠実ではあるが、カウンセラーという自分の仕事であり、特記されることはない。
ショーンはウイルの進む道は自分で決めさせようとする。
作品勝負、才能勝負という風土は、この映画の脚本が、20歳の無名の若者によって書かれながら、大手の会社がそれに乗るという構造にも現れている。
人間関係とか、実績を云々する社会では、こうした新鮮な作品は登場し難いだろう。

 我が国でも、新たな才能は生まれているはずである。
しかし、権威に従順で常識に従い誰も自分の頭で考えてないから、新しいものが現れてもそれと気づかない。
また新しいものは最初は不格好であるため、それを評価できず、むしろ貶めたりする。
この映画でも、ショーンに「君が悪いわけじゃない」と何度も言わせる。
それがウイルの心を開く。どんな世界だって、子供が悪いわけではない。
大人が作る世界が、新たな子供を生かしもし、殺しもする。

 ウイルがスカイラーを追ってカルフォルニアへ行くエンディングはよいとしても、ショーンのエンディングは難しかっただろう。
ショーンまで休暇を取って旅に出させたのは、両者がまったく対等である象徴かもしれない。
ガス・ヴァン・サント監督たちが、脚本に忠実に映画化したこの作品は、いろいろな意味で最先端の映画だった。
強いて難を言えば、カウンセリングでほんとうに心が開かれるかは疑問である。
愛情以外に頼るものがないとしても、カウンセリングという精神活動をそんなに楽観して良いのだろうか。

1997年のアメリカ映画


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