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現在のアメリカ映画において、最大の主題とする子供への教育が、正面から取り上げられており、改めて子供問題の重大性が判る。 「A..I.」と共通する問題意識といったらいいだろうか。 この話は事実に基づいているとタイトルが入ってから、映画は現在と1960年代を行きつ戻りつしながら進む。 主人公のフランク(レオナルド・ディカップリオ)は、当時16歳である。
1960年代、アメリカは輝いていた。 フランクの父親フランク・アバグネイル(クリストファー・ウォーケン)は、ロータリークラブの名誉会員に選出され、得意の絶頂にあった。 しかし、税務署と悶着を起こしたことから、下り坂になってしまう。 家も車も手放し、小さなアパート住まいになってしまった。 そんな惨めな状況に、嫌気がさした妻のポーラ(ナタリー・パイ)は、夫の友人と浮気し離婚する。 父親の凋落と、母親の裏切りを見た息子のフランク・アバグネイルJrは、ひょんなことから自分に不思議な能力なあることを知る。 それは他人を騙せる才能だった。 しかも、常人が及びもつかないような、大胆な詐欺だった。 まず、転校した高校では、あたかも新任の教師であるかのように振る舞い続け、一週間も見破られなかった。 そんな彼の前に、一冊の小切手帳が贈られた。 銀行に残高がなければ、小切手は不渡りになる。 しかもパーソナル・チェックは、誰でも受け取ってくれるとは限らない。 銀行に残高がなくても、小切手を換金できる方法、それは詐欺と偽造だった。 天性の詐欺の才能に磨きをかけ、精巧な偽造小切手を生み出していく。 最初のうちは遊び半分だったが、小切手の偽造はれっきとした犯罪であり、FBIの捜査がのびてくる。 飛行機のパイロット、医者、弁護士となりすまし、鮮やかな手口でFBIを煙に巻いていた。 FBIの捜査官カール・ハランディは、あと一歩と言うところで取り逃がしていたが、カールにはフランクの心境がよく分かっていた。 フランクは詐欺と小切手の偽造こそ有能だが、クリスマス・イヴに一人でいるという孤独で寂しい人間である。 そんな彼に、カールは何とはない身近さを感じていた。 アメリカから追われて、母親の祖国であるフランスに逃げ、そこで大々的に小切手の偽造をやって、フランクはしこたま儲けていた。 と同時にフランス警察からもマークされた。 フランクのもとを訪れたカールは、フランス警察は本当に射殺するぞと言って、フランクに自首を勧める。 結局、フランス警察に拘束されるが、アメリカに送還され刑を受ける。 この映画の主題は、ここから始まる。 フランクの偽造能力に感心したカールは、彼をFBIに雇おうとする。 囚人をFBIが職員として、雇うことなど想像もつかないが、事実らしい。 彼は出獄を許されてFBIに採用される。 フランクの立場は、普通の職員と変わらない。 土日は休みで、フランクが自由に使って良い。 誰も彼を見張っている者はいない。 フランクは外国へ逃げようとするが、カールは「誰もおまえを追っては来ない」と言って、職業人としての道を進める。 月曜日の出勤を期待して、彼を自由のままにする。 フランクは外国へ逃げることもできたのだが、FBIの職員として月曜日に出勤してくる。 ここがこの映画の訴えたいところである。 どんな境遇にあっても、子供を信ぜよ。 子供が嘘を言っても、大人は決して嘘を言ってはいけない。 父親の没落と母親の裏切り(母親自身にしてみれば愛情の対象が移ったことにすぎないが)によって、フランクは心にすきま風が吹き込み、小切手の偽造という犯罪の道に走った。 それは子供の責任ではないとでも言いたそうである。 犯罪者と彼を追う刑事との関係であっても、カールは決して嘘を言わずフランクを信頼した。 最後には、その信頼にフランクは応えてくれた。 何だか義理人情路線のように見える。 人情にあつい古参の刑事が、若い犯罪者に恩情をかけ、更生に導こうとする話は、我が国でもある話である。 しかし、決定的に違うことがある。 それはフランクが終始、カールと横並びであることである。 我が国のように、刑事をオヤジさんと呼ぶこともないし、刑事が年齢の下の者を呼び捨てにすることもない。 親子ほど年齢の違う犯人と刑事でありながら、両者は全くの対等である。 それでありながら、カールはフランクに「おまえはガキだから」と言っている。 つまりカールにはフランクが、まったくの子供に見えていることは間違いない。 にもかかわらず、カールとフランクは対等であり、対等に接している。 この構造は、それまで目下に見られててきた女性が、自立を獲得する過程とまったく同じである。 属性で人間を判断するのではない。 一人という存在が人格を決定するのである。 子供という属性や女性という属性が、人格の裏付けではないというフェミニズムの主張が、この映画には鮮明に現れている。 我が国では、フェミニズムは女性の思想だと考えられがちだが、女性という属性から自由になるという意味で、フェミニズムはヒューマニズムと同じであり、まさに人間の思想である。 この映画は明らかにフェミニズム以降のものであり、21世紀の思想を探して作られている。 つまり、女性が自立したあと、残された子供の自立をめぐって、思想的に格闘している。 子供の自立とは言い換えると、次世代の育成である。 次世代の育成がないと、大人自身が断絶する。 大人という観念の継続が保障されないと、社会は存続できない。 女性の自立を否定するわけにはいかないから、どうしても子供の自立を図らなければ、この社会は存続できない。 子供の自立は、大人社会そのものの問題である。 次世代の育成が、情報社会のアキレス腱であり、緊急に解決を迫られている問題である。 それが分かっているから、アメリカ映画は子供の問題を、手を変え品を変えて執拗に扱うのである。 おそらく我が国の映画評論は、この映画を若い天才詐欺師の話として扱うだろう。 もちろん舞台は小切手詐欺であり、有難げなイメージに弱い世間を、手玉に取った若者の物語である。 しかし、この映画の主題は、子供の教育である。 この映画の主題が子供の教育だとは、我が国では誰も想像もつかないだろう。 そのくらいアメリカと我が国の情報社会は、すでに開いてしまっている。 こうした映画を見せつけられると、本当に我が国の状況に絶望したくなる。 切れる子供とか、子供を何かと悪し様に見て、手垢の付いた大人の論理で、子供を取り込んでいこうとする我が国。 子供こそ無限の可能性を秘めた存在で、その可能性に期待しなければ、大人が生きていけないと言うのに、大人は自己を疑うことすらしない。 また、一時太っていたディカップリオが、精悍な容貌を取り戻し、切れのある演技を見せていた。 そして、トム・ハンクスも押さえた演技で見応えがあった。 ところで、フランスの監獄描写がひどいものだったが、スピルバーグはフランス嫌いなのであろうか。 振り返ってみると、男が男であり、女が女であることを許されたのは、1960年代の前までだったのだろう。 この時代の服装は、男女ともにセックス・アピールが、すでに失われている。 これからどんなファッションが創造されるのだろうか。 可能性は子供にあるのであって、大人にあるのではない。 新たな息吹を創造するのは、いつの時代でも子供たちである。 スピルバーグがメガホンを取り、トム・ハンクスとディカップリオが登場した割には、地味な映画ではある。 前半にややもたつきがあったが、最後へきてぐっとしまった。 スピルバーグの余裕と愛国者ぶり、そして時代意識の確かさを感じさせた。 2002年アメリカ映画 |
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