タクミシネマ        A.I.

A.I.    スティーヴン・スピルバーグ監督

 鳴り物入りで宣伝しているし、主題も今日的なので期待して見に行ったが、残念ながら期待したほどではなかった。
人工頭脳は今後の大きな研究課題で、これからたくさんの成果がでてくるだろう。

 この映画が扱おうとした自発性や愛情などは、機械が最も不得意とするものだけに、すぐ明日にもという現実性はない。
しかし、機械に愛情を云々することは、じつは人間の愛情を考えることである。
愛に飢え、子供なる存在を見直す必要がある現在には、時機を得た企画だといえる。

 人間が生きていくには厳しい時代になり、人口の成長を止める必要がでてきた。
そのため、子供を持つには許可が必要になった。
ヘンリー(サム・ロバーズ)とモニカ(フランシス・オコナー)夫婦の実子マーティン(ジェイク・トマス)は、不治の病のため冷凍保存されていた。
そこへ愛情を理解する子供ロボットのデイヴィッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)がやってくる。
彼は母親のモニカの心をたくみに読み、なんとか彼女の愛情に応えようとする。
しかし、冷凍保存されていた実子マーティンが、病気もなおり彼らの家に戻ってきた。

A.I. [DVD]
劇場パンフレットから

 デイヴィッドは新たな子供の出現にとまどい、対応ができなくなる。
また人間たちのほうでも、デイヴィッドへの対応が難しくなってくる。
愛情を組み込まれたロボットだが、愛情とは何かが定義されていないから、愛情に従った行動をさせるのは困難をきわめる。
生身の人間が大切であり、人間のためのロボットである。
ロボットは生命がないのだから、大切にされるわけがない。

 愛情は人間同士を傷つけることもあるのだから、生命こそ最も大切だという前提がある限り、愛情が何かは定義できない。
人間は愛によって戦争や、愛のために人殺しさえする。
ロボットにいくら愛情を組み込んでも、ロボットは決して人間に危害を与えない。
これでは愛情が最初から制限されており、本当の愛情になるはずがない。

 しかし、愛情をもったデイヴィッドにたいして、人間たちは人間へと同じような愛情が生まれてしまう。
そのため、そこには嫉妬や、複雑な心の動きがからみ、家族内の人間関係がぎくしゃくしてくる。
家族関係の破綻を恐れたモニカは、いわば猫を捨てるように、デイヴィッドを野原に捨ててしまう。
問題はロボットであるデイヴィッドにあるのではなく、人間のほうにある。

 この映画の本当の展開は、この捨てられた場面から始まるといってもいい。
すでにジャンク・ロボットがたくさん捨てられており、捨てられたロボットたちはホームレスのような生活をしていた。
デイヴィッドもその中に紛れ込むが、彼はあまりにも高性能すぎた。
ピノキオを読んだ彼は、どうしても人間になりたかった。
ピノキオを人間にしてくれた青い天使を捜して、彼は旅にでる。


 こうして振り返ってみると、この映画は意外なほどに論ずべき点が少ないことに気づく。
映画を見ている最中は、大仕掛けな画面や、奇想天外な展開で、それなりに見せている。
しかし、なぜデイヴィッドが人間になりたいのか、その動機付けが良く判らない。
愛情を理解したから、人間になりたい。
人間になれば、母親であるモニカに愛して貰える。
それはわかるが、この大作には、それだけの動機付けでは不充分である。
もっともっと愛情をめぐる本質的な論議が、組み込まれるべきだった。


 ジャンク・ロボットを壊すショーが、人種差別を模したものだったり、ロボットに対しては秘密警察のようなものがあったり、と設定にはさまざまな仕掛けがある。
古い世代のロボットが捨てられるのは、古くなった車が捨てられるのと同様である。

 車と違って古いロボットでも感情がある設定らしいから、世代の違うロボットの混在はちょっと無理な感じがする。
それにこの映画は未来に時代設定しているので、何でも可能になっているようでありながら、警察機構やホテルのシステムなどは、古いままでチグハグである。
ハードの進化に伴って、ソフトも進化するはずである。

 主題の消化には不足感があるが、映画のディテールはすごい。
まず、ロボットを演じる人たちの演技が秀逸である。
デイヴィッドは一度も瞬きをしないし、学習が進むにつれて、人間らしく滑らかに行動するようになる。
表情もメイキャップを少しずつ変えているらしく、ロボットから人間へとほんの少しずつ変化する。
また、デイヴィッドの友達になるジョー(ジュード・ロー)も、外見はまったくの人間でありながら、メイキャップでロボットらしさを見せ、行動もやや人間ばなれした様子を演じている。
ジョーを演じたジュード・ローの演技は、不思議な上手さだった。

 ところでジョーは、女性へのセックス・サービル専門のロボットである。
いわばロボットのジゴロである。
この設定は、フェミニズムの女性たちから文句がでないかと、ちょっと心配になった。
男性のセックスは、自発的で積極的な性行動になるから、男性用のセックス・ロボットは受け身的な存在になる。
だから、人間の主体性を犯すようなことはない。
しかし、女性へのセックス・ロボットは、ロボットが女性に快楽を与える設定である。
これは女性の主体性を犯しているのではないだろうか。


 女性の性は、男性から見られ犯されるものだ、という視点に女性たちは反論した。
女性にも性に関して自己決定権があり、自分の快楽は自分が決める、といったはずである。
それが女性の自立とつながっている。
それがこの映画では、女性はロボットに組み伏せられて、貫通される存在である。
そのうえ、セックス・ロボットとの性交を一度体験したら、生身の男性なんて物足りなくなる、とジョーにいわせている。

 女性はロボットに快楽を与えられる存在と見なされている。
女性はまったくの受け身である。
抱かれる女から抱く女への転換が、フェミニズムの主張だった。
ここは女性が上になるべきではないか。
もしくは少なくとも、女性の主体性や主導権が見える形で、ジョーとの対応が進むべきだったと思う。
女性は性的な快感に弱いというジョーの発言は、女性蔑視といわれかねないものが多々あった。

 どんな映画も、途中までは話を広げていき、あるところから結末に向かって纏めていく。
話を広げっぱなしでは、物語として納まらない。
この映画は、話を広げるのは良かったが、納める段階になっても落とし所がなかった。
映画の読み込みが、さまざまに可能といえば聞こえは良いが、監督の思考がまとまっていないがゆえに、主題の絞り込みができなかったように思う。
物語を終わりにしても良い場面が、何度も何度もありながら、後へ後へと話を続けたので、結局何が言いたかったのかよく判らなくなってしまった。

 デイヴィッドを演じたハーレイ・ジョエル・オスメントは、毎度のことながらすごい子役である。
12才というから、小学校の六年生である。
世界を相手に公開する映画の主役を、こんな小さな子供が張る。
それに驚く。
小学生が大人と同質の主役を張る。
そのことの意味を考えるべきだろう。
これこそ年齢秩序の崩壊といっても過言ではない。
子供への愛情云々は、皮肉にもここで試されているのかもしれない。

 莫大なお金をかけて作られた映画だということはよく判る。
SFXもすごいし、そこそこに配置された小物も、非常にこっている。
この映画はスタンリー・キューブリックが、長いあいだ暖めていた企画だという。
しかし、彼が死んでしまったので、スピルバーグにいったらしい。
最後には、スタンリー・キューブリックに捧げる、と文字がでた。
この企画はスピルバーグ向きではなく、難しい話を難しく撮るキューブリック向きだったように思う。

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