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鳴り物入りで宣伝しているし、主題も今日的なので期待して見に行ったが、残念ながら期待したほどではなかった。 人工頭脳は今後の大きな研究課題で、これからたくさんの成果がでてくるだろう。 しかし、機械に愛情を云々することは、じつは人間の愛情を考えることである。 愛に飢え、子供なる存在を見直す必要がある現在には、時機を得た企画だといえる。 人間が生きていくには厳しい時代になり、人口の成長を止める必要がでてきた。 そのため、子供を持つには許可が必要になった。 ヘンリー(サム・ロバーズ)とモニカ(フランシス・オコナー)夫婦の実子マーティン(ジェイク・トマス)は、不治の病のため冷凍保存されていた。 そこへ愛情を理解する子供ロボットのデイヴィッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)がやってくる。 彼は母親のモニカの心をたくみに読み、なんとか彼女の愛情に応えようとする。 しかし、冷凍保存されていた実子マーティンが、病気もなおり彼らの家に戻ってきた。
デイヴィッドは新たな子供の出現にとまどい、対応ができなくなる。 また人間たちのほうでも、デイヴィッドへの対応が難しくなってくる。 愛情を組み込まれたロボットだが、愛情とは何かが定義されていないから、愛情に従った行動をさせるのは困難をきわめる。 生身の人間が大切であり、人間のためのロボットである。 ロボットは生命がないのだから、大切にされるわけがない。 愛情は人間同士を傷つけることもあるのだから、生命こそ最も大切だという前提がある限り、愛情が何かは定義できない。 人間は愛によって戦争や、愛のために人殺しさえする。 ロボットにいくら愛情を組み込んでも、ロボットは決して人間に危害を与えない。 これでは愛情が最初から制限されており、本当の愛情になるはずがない。 しかし、愛情をもったデイヴィッドにたいして、人間たちは人間へと同じような愛情が生まれてしまう。 そのため、そこには嫉妬や、複雑な心の動きがからみ、家族内の人間関係がぎくしゃくしてくる。 家族関係の破綻を恐れたモニカは、いわば猫を捨てるように、デイヴィッドを野原に捨ててしまう。 問題はロボットであるデイヴィッドにあるのではなく、人間のほうにある。 この映画の本当の展開は、この捨てられた場面から始まるといってもいい。 すでにジャンク・ロボットがたくさん捨てられており、捨てられたロボットたちはホームレスのような生活をしていた。 デイヴィッドもその中に紛れ込むが、彼はあまりにも高性能すぎた。 ピノキオを読んだ彼は、どうしても人間になりたかった。 ピノキオを人間にしてくれた青い天使を捜して、彼は旅にでる。 こうして振り返ってみると、この映画は意外なほどに論ずべき点が少ないことに気づく。 映画を見ている最中は、大仕掛けな画面や、奇想天外な展開で、それなりに見せている。 しかし、なぜデイヴィッドが人間になりたいのか、その動機付けが良く判らない。 愛情を理解したから、人間になりたい。 人間になれば、母親であるモニカに愛して貰える。 それはわかるが、この大作には、それだけの動機付けでは不充分である。 もっともっと愛情をめぐる本質的な論議が、組み込まれるべきだった。
古い世代のロボットが捨てられるのは、古くなった車が捨てられるのと同様である。 車と違って古いロボットでも感情がある設定らしいから、世代の違うロボットの混在はちょっと無理な感じがする。 それにこの映画は未来に時代設定しているので、何でも可能になっているようでありながら、警察機構やホテルのシステムなどは、古いままでチグハグである。 ハードの進化に伴って、ソフトも進化するはずである。 主題の消化には不足感があるが、映画のディテールはすごい。 まず、ロボットを演じる人たちの演技が秀逸である。 デイヴィッドは一度も瞬きをしないし、学習が進むにつれて、人間らしく滑らかに行動するようになる。 表情もメイキャップを少しずつ変えているらしく、ロボットから人間へとほんの少しずつ変化する。 また、デイヴィッドの友達になるジョー(ジュード・ロー)も、外見はまったくの人間でありながら、メイキャップでロボットらしさを見せ、行動もやや人間ばなれした様子を演じている。 ジョーを演じたジュード・ローの演技は、不思議な上手さだった。 ところでジョーは、女性へのセックス・サービル専門のロボットである。 いわばロボットのジゴロである。 この設定は、フェミニズムの女性たちから文句がでないかと、ちょっと心配になった。 男性のセックスは、自発的で積極的な性行動になるから、男性用のセックス・ロボットは受け身的な存在になる。 だから、人間の主体性を犯すようなことはない。 しかし、女性へのセックス・ロボットは、ロボットが女性に快楽を与える設定である。 これは女性の主体性を犯しているのではないだろうか。 女性の性は、男性から見られ犯されるものだ、という視点に女性たちは反論した。 女性にも性に関して自己決定権があり、自分の快楽は自分が決める、といったはずである。 それが女性の自立とつながっている。 それがこの映画では、女性はロボットに組み伏せられて、貫通される存在である。 そのうえ、セックス・ロボットとの性交を一度体験したら、生身の男性なんて物足りなくなる、とジョーにいわせている。 女性はロボットに快楽を与えられる存在と見なされている。 女性はまったくの受け身である。 抱かれる女から抱く女への転換が、フェミニズムの主張だった。 ここは女性が上になるべきではないか。 もしくは少なくとも、女性の主体性や主導権が見える形で、ジョーとの対応が進むべきだったと思う。 女性は性的な快感に弱いというジョーの発言は、女性蔑視といわれかねないものが多々あった。 話を広げっぱなしでは、物語として納まらない。 この映画は、話を広げるのは良かったが、納める段階になっても落とし所がなかった。 映画の読み込みが、さまざまに可能といえば聞こえは良いが、監督の思考がまとまっていないがゆえに、主題の絞り込みができなかったように思う。 物語を終わりにしても良い場面が、何度も何度もありながら、後へ後へと話を続けたので、結局何が言いたかったのかよく判らなくなってしまった。 デイヴィッドを演じたハーレイ・ジョエル・オスメントは、毎度のことながらすごい子役である。 12才というから、小学校の六年生である。 世界を相手に公開する映画の主役を、こんな小さな子供が張る。 それに驚く。 小学生が大人と同質の主役を張る。 そのことの意味を考えるべきだろう。 これこそ年齢秩序の崩壊といっても過言ではない。 子供への愛情云々は、皮肉にもここで試されているのかもしれない。 莫大なお金をかけて作られた映画だということはよく判る。 SFXもすごいし、そこそこに配置された小物も、非常にこっている。 この映画はスタンリー・キューブリックが、長いあいだ暖めていた企画だという。 しかし、彼が死んでしまったので、スピルバーグにいったらしい。 最後には、スタンリー・キューブリックに捧げる、と文字がでた。 この企画はスピルバーグ向きではなく、難しい話を難しく撮るキューブリック向きだったように思う。 2001年のアメリカ映画 |
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