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しばらく映画評を書かなかったが、この映画のすばらしさに、思わず感想を書き始めた。この映画は同時代的で人間への信頼に満ち、もちろん子供こそ時代を切り開く存在だ、という信念にあふれている。
それを信じたペッパーは、一つ一つ実行していく。その中でも白眉は、アメリカに協力的だとして収容所から解放されていた日本人男性ハシモト(ケイリー=ヒロユキ・タガワ)と付き合う過程だ。なにしろ日米戦争のまっただ中、日本人はジャップとかニップと呼ばれて、敵国人扱いされていたのだ。オリバー司祭に言われて、しぶしぶハシモトと付き合い始める。
広告 ペッパーはハシモトを友人として家に招こうとする。兄は敵国人を憎んでハセガワを襲ったりしていたが、母親(エミリー・ワトソン)はペッパーの夢に向き合ってくれる。しかし、母親はペッパーから友人だと聞いていたにもかかわらず、玄関のドアを開けると中年の日本人男性が現れたので驚く。一度ドアを閉めて、ペッパーに中年日本人が友人かと聞く。ペッパーがハシモトが友人だと答えると、母親は改めてドアを開け、失礼をわびながら招き入れる。 この映画は、冒頭からペッパーに父親をパートナーと呼ばせているし、親子ほど年齢の離れたハシモトを友人扱いしている。また、子供がハシモトを友人だと言えば、母親は無条件に信じて本当に子供の友人として、中年の日本人男性を招き入れる。8歳の少年も中年のハシモトも同じ扱いである。 ここではすべての人が人として同じ扱いで、横並びになっている。 兄がその場に入ってくる。日本人が父親の椅子に座って食事をしているのを見て、兄は激高しライフルを持ち出してハシモトを追い出してしまう。ハシモトは淡々としてオマハの日々を過ごしている。 母親の姿勢は信じられないくらいに立派だが、兄たちの対応だって戦時下を思えば、責められるものではないだろう。 広告 父親を取り戻したいというペッパーの執念が、この映画の根幹である。日本映画だと母子が描かれることが多い。しかし、アメリカでは父子が強調される。8歳と言えばやっと小学校に上がる年齢である。にもかかわらず、父親をパートナーと呼ばせている。また、母親も子供の意思をあたかも大人と同じように扱ってる。ここには高齢者が偉いとか、親が偉いと言った年齢秩序はまったく存在しない。 リトルボーイというタイトルから、広島に落とされた原爆を想像したが、映画のなかでやはり広島の原爆がエピソードとして使われていた。しかし、リトルボーイという名前も、功罪相半ばするように使われており、事前に想像したより遙かに平常心で見ることが出来た。貧しいハシモトも知性を備えた紳士と描かれており、監督の真摯な知性を充分にうかがわせる。人間は人間として平等に扱われるべきで、年齢や人種を越えて人を愛することを訴える。 戦時中のオマハがあんなに平穏かはわからない。現実はむしろ殺伐としていただろう。しかし、戦時中でも人の心は変わらないし、暖かい気持ちも表れるものだ。また、子供の心は偏見がないだけに、父親への愛情がストレートに表れる。 アメリカ映画は2000年を過ぎた頃から、「アボウト ア ボーイ」など、子供を主題にした映画をたくさん撮っていた。 女性が自立したので、家庭には子供が残された。子供にも自立を促すように時代が要求している。そのため、子供を主題とした映画たくさん撮られたのである。そのあたりは「私の映画談義」を参照ください。 男女が自立したので、神の元に子供が残された。文化を受け継ぐ者としての、子供が自立を迫られている。子供とは未成年者を意味するだけではない。近代の入り口で登場した<子供>なる概念が消失しようとしている。そして、社会福祉の充実と親世代の蓄財の完了により、貴重な労働力であり、老後の保障として不可欠だった子供が、個別の親としては不要になった。 しかし、子供はやはり成人と違い、女性の自立とは違ってどれも失敗だった。その後、子供を主題とした映画は見られなくなった。それでも時代の方向は、すべての人間の平等化であり、子供の解放であることは間違いない。 広告 現実を見回してい見ると、大人と子供を同等の人格として扱うようになりながら、子供への虐待は極めて厳しく取り締まるようになっている。チャイルド・アビューズの対象は生理・精通前の子供だけではなく、成人に近い未成年者も含まれる。そうでありながら未成年者に手を出すと、殺人鬼であるかの如くに批難が殺到する。このあたりは二律背反的な対応で、難しいところである。 アメリカ映画が難しい主題を、持続的に追求していることを知って、大いに力づけられた。やはり考え続けること以外に時代を切り開く道はないのだ。無条件に☆を2つ献上する。原題は「Little Boy」 2014年アメリカ映画 (2016.8.30)
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