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優れた脚本にのっとって、達者な役者が演じた映画で、星を献上する。 親子6人家族が、平穏に暮らしていたところ、突然に父親が若い女性と駆け落ちしてしまった。 母親テリー(ジョアン・アレン)は落ち込んで、苛立ち、怒り、酒におぼれる日々となった。
夫と仲むつまじかっただろう時代は、まったく描かれずに、葬式の場面から3年前に遡って、映画は始まる。 テリーの家には、長女のハドリー(アリシア・ウィット)、次女のエミリー(ケリー・ラッセル)、三女のアンディ(エリカ・クリスティンセン)、それにポパイ(エヴァン・レイチェル・ウッド)と、4人の娘がいた。 長女は大学生で、末娘は中学生である。 いずれも思春期の元気な盛り、しかも親を冷静に見るようになる年頃でもある。 蒸発した父親にたいして、必ずしも批判的ではない娘たちに、母親はますますいらつきを増していく。 隣に住む元プロ野球選手だったデニー(ケヴィン・コスナー)が、テリーを慰めに来てくれるが、彼もいささか持てあまし気味である。 いや、こんなものでは済まないかもしれない。 彼女のイライラに、娘たちの生活を重ね合わせて、物語はすすんでいく。 個人の輪郭がはっきりしたアメリカでは、親といえども他人である。 もちろん親はかけがえのない人ではあっても、娘には娘の生活がある。 長女のハドリーは、大学を卒業すると同時に、妊娠して結婚してしまった。 母親には事後的に知らされたので、これが許せない。 事前の相談があって良い、というのだろう。 しかし、子供の人生は子供の人生であり、親には口を挟む権利はない。 そのあたりはよく判っているので、テリーは結婚を祝福してみせるが、 なにせイライラの真っ最中だから、相手の家族にも当たってしまう。 次女のエミリーは、親に逆らって大学に行かずに、就職してしてしまう。 挙げ句の果てには、年の離れた職場の上司シェプ(マイク・バインダー)とできてしまい、母親は怒り心頭に発する。 しかも、2人がベットにいるところを、もろに目撃してしまい、言葉を失ってしまう。 しかし、子供の恋愛を、親が止めることはできない。 これも判っているので、憤懣やるかたないが、致し方ない。 3女のアンディは、ダンスに夢中で、ダンス専門学校へ行くと言いだす。 大学には行かずに、かってに入学試験を受けてしまう。 大学に行かせたいテリーの期待は、みごとに外される。 これまたとんでもない娘を抱えたことになった。 しかも、エミリーが内臓に痛みを感じて、緊急入院してしまい、家族中が大騒ぎとなる。 母子が対立していても、入院となれば心配である。 それでもボーイフレンドのゴードン(デーン・クリステンセン)は、ゲイである。 いずれもテリーには頭の痛い問題ばかりである。 彼女はウォッカを浴びるように飲んで、イライラを納めようとするが、そんなものでは納まるものではない。 誰に対しても、ぎくしゃくとしながら、つんつんと当たってしまう。 テリーを演じるジョアン・アレンの演技が、抜群に上手い。 ギスギスの身体ながら、ときは抑えて、ときには激しく、全身で感情を表現している。 相手役を務める年のいったケヴィン・コスナーも、とびきり上手くはないが、良い味を出している。 子供たちは演技を云々するレベルではない。 それでも自然な立ち振る舞いは、今のアメリカ映画の正統的な演技である。 デトロイト郊外の高級住宅地を背景にして、些細な日常を描きながら、テリーの心理を際だたせていく。 夫がいなくなって3年間の出来事を、時間を追って描く。 脚本が良くできているので、実に自然に見ることができ、厳しい状況におかれたテリーに同情してしまう。 お金があるか否かではない。 心の問題は、お金のあるほうがより厳しく、先鋭になって襲ってくる。 アメリカには母物といわれる映画は、今までほとんどなかった。 「パパは何でも知っている」をもちだすまでもなく、父子映画はあっても、母子物は注目を集めなかった。 主人公となる子供は娘でも、「シャンヌのパリ、そしてアメリカ」や「将軍の娘 エリザベス キャンベル」のように、その相手になるのは父親だった。 フェミニズムの登場までは、自立していたのは男性だけだったから、 女性である母親が子供の手本になることがなく、いままで映画で描く対象にならなかったのである。 1990年代にはいると、子供映画が撮られ始めた。 そして、女性の自立がほぼ確立した今、2000年を過ぎると、アメリカでは母子物が撮られ始めた。 思いつくままに上げても、「ホワイト オランダー」「フォーガットン」「スタンド アップ」「フライトプラン」「バイバイ、ママ」と、たちまち5本の映画を数えることができる。 アメリカではただ存在するだけでは、家族の一員として認められはしても、 家族への影響力を肯定されなかった。 対社会的な行動をして、はじめて人間としての評価が生まれた。 母子物の登場は、女性の経済力が男性のそれと、ほぼ同等になったことの証であり、 女性も自力で立ったので、女性の存在を子供への影響として、考察すべき対象となったことの証明である。 映画は現実の人間を描くので、現実そのままだと思いがちである。 しかし、カメラをとおすという作業は、観念がなさせているのであり、 観念を観念たらしめているのは、生の人間ではなく社会性である。 だから前近代的な我が国では、没社会的な母子物が多くて、近代のアメリカでは今まで母子物が成立しなかったのだ。 女性の自立は完成期にはいるだろうから、今後はますます母子物がふえるであろう。 何も壊れず、大勢の人が登場するのでもない。 たいしたお金もかかっていない。 それでも良い映画は作れる見本と言っていいだろう。 ちょっと気になったのは、デトロイト郊外の美しい秋の景色が、コダック調の色味でありながら、 べったりしていたことだ。 じつはコダックではなく、フジが使われていたのだが、この違いはどこから来たのだろうか。 原題は「The upside of anger」 2005年アメリカ映画 (2006.6.07) |
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