1960年代のアメリカ家族を主題にしているが、実在する女性の自伝を映画化したものである。 シャンヌ(リーリー・ソビエスキー)は小説家の父親ビリー(クリス・クリストファーソン)ら家族と一緒にパリに住んでいた。 まだ小さかったシャンヌに、養子として弟(ジェシー・ブラッドフォード)ができる。 そして、彼女が高校生の時、家族はアメリカに戻る。 彼女の小学生から高校生まで、子供の目を通して父親像を描いている。
日々の些細な事柄を丹念に積み重ねて、家族のあって欲しい姿を訴えるのは、核家族がバラバラになってしまった現在への提言だろう。 父と母それに子供二人という家族構成は、典型的な核家族であり、しかもこの家族は裕福な階層に属する。 生活に何も不安のない家族の、お気楽な話といってしまえばそれまでだが、家族の問題と向き合わなければならないアメリカでは切実である。 核家族であってもこの家族は養子をとっており、血縁のない人間もまごうことなく家族の一員だと言うことにおいて、血縁の家族主義ではない。 精神が優先する現代のものである。 むしろ、家族のなかでかわされる会話や何気ない行為が、柔らかい襞のように折り重なっていく物語を味わうべきだろう。 青春に目覚めるパリでの生活、フランシス(アンソニー・ロス・コンタンツォ)という男友達が淡い恋心を抱く話。 オペラ「サロメ」のすばらしさ、カソリックの女中さんカンディダ(ドミニク・ブラン)が結婚しない顛末。 ヨーロッパくずれ人間への嫌悪、アメリカでの帰国子女のいじめなどなど、一つ一つは大した事ないのだが、それらが撚り合わさって暖かい物語になっている。 平凡な話題の連続であっても、映画は決して凡庸ではないし退屈でもない。 何も壊れず、SFXも使わず、裸もベッドシーンも登場しない。 それでも、良い映画に仕上がっている。 この家族が生活していた時代とは違って、いまや家族の問題はより個人化している。 父親が次世代に忠告できるほど、のんびりとした時代ではない。 しかし、精神的なつながりの人間たちは必ず必要で、それを家族と呼べばいつの時代でも家族は必要である。 とりわけ子供にとっては、養育してくれる人が不可欠である。 それは保守革新を問わない。 そうした意味では、これからの家族映画は子供が主題になっていくだろう。 この映画も子供の目が中心である。 しかし、皮肉なことにこうした家族が批判の対象とされ、崩壊してしまったのである。 リベラルであることが反動的にさえ見える倒錯した時代。 最後の救いは、この両親が子供たちの自立性を信じていることである。 だから子供に強制はしない。 子供の人格を信じていることが、子供に伝わり互いに信頼を結ぶ。 子供への信頼がもっとも大切なのだろう。 それにしてもビリーの妻であり、シャンヌたちの母でもあるマルチェラ(バーバラ・ハーシー)は、一体何をしてきたのだろうか。 核家族を描いたこの映画からでも、専業主婦の存在は単なる潤滑油に過ぎないことがよくわかる。 劇場パンフレットによれば、映画製作の国籍はイギリスとなっているが、映画の作りや対象観客は明らかにアメリカである。 ハリウッド的な作りではないかもしれないが、主題の明確さ、ストレートな映画的表現など、ヨーロッパ的ではない。 原題は「A soldier' daughter never cries」である。 1998年イギリス映画。 | |||||||||
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