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宇宙戦争   スティーヴン・スピルバーグ監督

 H.G.ウェルズの原作を映画化したもので、
記憶のかぎりでは、映画は原作に忠実に作られている。
すでに60歳に届きそうなS.スピルバーグ監督の手になるとなれば、物語は滞りなく進んでいく。
見せるべきところでは観客の気を引きつけ、
抜くところでは手綱を緩めるといった手練である。
それなりに面白くはあるが、それ以上はない。

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劇場パンフレットから

 宇宙人襲来は、すでに手垢の付いた話だが、設定自体が映画的なのだろう。
宇宙人との戦争では、立体的な映像を作ることができる。
もちろんそれだけに負っているわけではないが、
このクラスの監督になれば、映像美といったものにもっと関心を払って欲しい。
話の展開は、主人公のレイ(トム・クルーズ)が子供を守りながらの、ロードムービーといったところだろうか。

 ニューヨーク(多分)でクレーンのオペレーターをやっているレイは、
腕はいいがマッチョ指向の野蛮な男である。
60年代に流行ったマスタングのクーペに乗っている。
家の中には、チューンナップ中なのだろうか、交換用のエンジンがおかれている。
今日は離婚して離れてしまった2人の子供に会える日だった。
勇んで帰宅する彼が、その直後に見たのは、不可解な現象だった。


 稲妻に続いて、地中から出現した3本足の怪物が、次々と人間たちを殺し始めた。
ここにいては危険だと感じた彼は、たった一台動いた車を奪って、脱出をはかる。
元妻マリー(ミランダ・オットー)の住む家に行くが、そこには誰もいない。
その晩に、付近に旅客機が墜落する。
そこで、2人の子供を連れて安全であるはずの、元妻の実家があるボストンめがけての逃避行が始まる。
なぜボストンが安全なのか、
そこまでたどり着くことが可能なのか、彼はまったく検討なしに突然に出発する。

 息子ロビー(ジャスティン・チャットウィル)と娘レイチェル(ダコタ・ファニング)をつれての逃避行は、
大勢の避難者に囲まれて困難を極める。
宇宙人との接近戦に巻き込まれるが、なぜか1人の男オグルビー(ティム・ロビンズ)が助けてくれる。
これもまったく説明なし。
そして、無事にボストンに着くと、そこにはマリーを初め、両親が平和そのものの様子で出迎えて映画は終わる。

 この映画はおかしなことが多すぎる。
前述した無計画のボストン行きから、
エンディングでは宇宙人に襲われたはずのボストン人が、きわめて平和な様子で登場するところまで、
実に不可解である。
宇宙人の来週だと気づけば、ボストン行きが危険だと判るはずだし、
むしろ安全な場所に閉じこもることを選択するはずである。

 映像的にも、労働者役のトム・クルーズが、群衆にとけ込んでおらず、1人目立っている。
労働者なら周囲にとけ込んでいるはずで、
彼が地元の人から浮き上がっているのは変だ。
しかも、元妻のマリーは教育があるように見える。
粗野なレイとどうして結婚したのか、これまた不思議である。
そのうえ、「マイ ボディガード」「ハイド アンド シーク」と、人気絶頂のダコタ・ファニングに絶叫ばかりさせている。
演技の上手い子役に、この演出はないだろうと思う。

 微妙な表現力に欠けるトム・クルーズには、じっくりとした演技を望むのは無理だとは思うが、
彼を主人公に決めたときに、<走る>映画になるように運命づけられたのだろう。
ミッション インポッシブル」以来、彼はどの映画でも走り回っている。
しかも、腕を直角に曲げ、胸を張って走っている。
迫力は出るだろうが、ちぃっとも早く見えない。


 最近の宇宙人の扱いが、同じ監督が1982年に友人として描いた「E.T.」から、
敵対的な宇宙人になっている。
これは何を意味するのだろうか。
敵対的な宇宙人の来襲から、バクテリアによって自壊するまで、自然賛歌と生命礼賛が主題だろうが、
この映画の隠れた主題には、子供を守る父親がある。
父親は強くて、家族を守る。
そして、長男は妹を守る、実はこれが真の主題だろう。

 レイは娘レイチェルを必死で守ろうとし、兄のロビーにもそれを強制する。
幼いレイチェルはまったく無力で、むしろ危険かことばかりやって、父親を困らせる。
不快なことに出会うと、突然に絶叫する。
そこでマッチョな父親はあわてて、子供の介抱をする。
強い父親にか弱い女の子、ここには血縁家族の賛美と、守る親という一昔前の主張がありありである。

 「マイ ボディガード」では、もっと幼かったダコタ・ファニングが、
屈強なデンゼル・ワシントンを救っていた。
「ハイド アンド シーク」でも大人が間違いで、幼かったダコタ・ファニングが正しかった。
いまのアメリカ映画は、大人社会の解放される先を、子供の自立に探っている。
子供の可能性に賭けているのが、現代アメリカ映画である。

 この映画は、そうした現代映画の流れとは反対に、大人が子供を守る主張である。
ここには何も新しい主張はなく、
むしろ保守的な過去への回顧があるだけである。
力のある者がない者のを守るのは当然であり、時代はその先に解放の論理を探している。
キャッチ ミー、イフ ユー キャン」では炯眼を見せたこの監督は、
一体どうしてこんな主題を取り上げたのだろうか。

 ユダヤ人だろうこの監督は、おそらく民主党支持だろうと思うが、
ミリオンダラー ベイビィ」でのクリント・イーストウッドの血縁の家族否定と並べるとき、
民主党の保守化の現れと読むべきなのだろうか。
子供から教わるアメリカ映画が多い中で、この映画は子供を保護の対象としてのみ見ている。
このあたりが現代的に感じられない原因だろう。

 有名監督が恐ろしいほどのお金をつかって、撮った映画だが、
どうも評価できる面がなかった。
時間つぶしに見るには良いだろうが、劇場に足を運ぶまでもないだろう。
この映画に比べると、同じ主題をあつかった「マーズ アタック」のほうがずっと面白かった。
2005年のアメリカ映画
(2005.07.03)

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