タクミシネマ        プライマー

 プライマー    シェーン・カルース監督

 映画が判らなくて、2回も映画館に行ってしまった。
上映前の夕食にお酒を飲んだら、映画の冒頭でちょっとウトウトしてしまった。
それも手伝って、この映画が何を訴えているのか、理解できなかった。
ロスト ハイウエイ」や「メメント」「π(パイ)」など、難しい映画は今までもあった。
しかし、理解できないことは初めてで、再度、同じ映画を見に行かざるを得なかった。

プライマー [DVD]
公式サイトから

 2004年のサンダンスで、審査員大賞と科学技術関連映画賞を受賞したとあった。
そのため、新規な映画だとは判ったが、何を主題にしているのか、1度見ただけでは当方には理解できなかった。
単家族論や母殺しで、時代の最先端を切り開いてきたと自惚れていたが、とうとう時代に追い越されたかと、落胆することしきりであった。
それにしても、こんな難解な映画に、審査員大賞を与えるサンダンスは、何という映画祭だ。

 2度目に見に行ったら、無限の自己相対化が主題だと判った。
鋭い指摘だとは理解するが、もう少し判りやすくしてほしかった、というのが愚かな観客の希望である。
お金がない中で作られているのもよく分かる。
ビデオで撮ったものを、劇場用のフィルムに変換したのか、画面が飛んでいる部分が多く、画面も見にくい。
と、文句を付けたくなるが、とにかく1度では判らなかった映画である。


 アーロン(シェーン・カルース)とエイブ(デヴィッド・サリバン)は、ひょんなことからタイムマシンを作ってしまった。
タイムマシンを使った映画は、今までもたくさんあった。
しかし、この映画の優れていることは、タイムマシンを使うことが、無限の自己相対化を生み、自己の無限の増殖を生み出す、と主張していることだ。

 前近代の笑いは、バナナの皮に滑って転ぶ人を笑うものだが、近代の笑いは、バナナの皮に滑って転ぶ人を笑う自分を笑うものだ。
科学は自己とは別の、事実としての世界があることを教えた。
そのため近代人は、自己を相対的に見る目を獲得した。
自己相対化の眼こそ、近代人を近代人たらしめている。
しかし、自己相対化は認識の基盤を消失させる、という射程をももっている。

 アーロンとエイブを喧嘩させたりしているので、この映画は無限の自己相対化を描くに止まり、近代批判までは意図していないだろう。
ひょっとすると、時間移動での矛盾だけを描いたのかも知れない。
しかし、監督の意図を越えて、この映画は鋭い近代批判になっている。
自己相対化したがゆえに、自己と事実が分離し、科学が発展し得たのだが、科学的認識は認識する人間の存立基盤を保証しない。

 前近代人は、神に信の基盤を置いたからだけではなく、自己と現実を一致させていたので、実感が現実に立脚し、自己認識は現実に基盤をおいていた。
そのため、前近代人は確固たる自己を確立し得たし、堂々とした人生を歩むことが出来た。
それに対して、近代人は自己相対化によって、常に自己を疑うがゆえに、確たる自己を確立できない。
近代人の自己は、つねに揺れ動く状態でしかない。

 前近代人は鏡に映る自己を見ていた。
1枚の鏡を見ているだけでは、自己相対化はおきない。
近代人は、鏡を2枚向かい合わせる。
1枚では1面だった世界が、2枚合わせることによって、無限の世界を創り出す。
ここで、自己相対化が無限になる。この映画では、タイムマシンのなかへ、タイムマシンを持ち込んで、2重の時間移動をする。
そのため、無数の自己が生じてしまう。

 アーロンとエイブは、時間を移動しただけではなく、現在と過去に自己=分身を誕生させてしまう。
その分身が分身を生む矛盾が、徐々に拡大し、とうとう収拾がつかなくなってしまう。
分身と自己の遭遇は禁止されていることなど、タイムトラベルのルールを踏襲しているが、タイムマシンのなかへタイムマシンを持ち込むことは実に新しい。
これによって、無数の分身が生じてしまう。
これは無限の自己相対化が、必然的にもたらす論理の破綻である。

 この映画は、自己相対化を自己相対化させることによって、無限の自己相対化を生じさせ、結局は自己そのものが破綻していく過程を描く。
近代の認識だった自己相対化は、自己相対化させることによって、無数の自己が生じて自己が崩壊する。
近代人の自我は、まったくこの映画が描くとおりである。
結局、近代の自己相対化は認識の基盤を失って、論理必然的に崩壊せざるを得ない。

 物語の展開は、タイムマシンは2人だけの秘密だったが、分身たちの登場によって、2人だけの秘密ではなくなっていく。
ここでどこまでが自己で、分身だか判らなくなる。
自己と分身の往復する構造が、まったく同じ俳優によって演じられているので、自己と分身の区別が不明瞭で非常に理解しにくい。
今登場しているのは、本当の自己か分身か区別が付きにくい。
結局のところは、自己でも分身でもなく、どちらも自己でありかつ分身でもある。


 デジタルの世界では、コピーという概念が成立しない。
当初、本物の自己だったアーロンにしてもエイブにしても、当初は自己が分身を分身と呼んでいるが、じつは分身も自己とまったく変わりない。
デジタルの世界ではオリジナルとコピーは、まったく同じである。
それと同じように、別の次元にいるアーロンやエイブは、すべて本物でありかつコピーなのだ。
人間のコピーも本物と同じだということが、なかなか理解できないから混乱する。

 自己と分身は、いずれも意志を持っている。
しかもその意識は別々のものであり、相互に連関はない。
電波は時間を超えるので、友人の誰かがアーロンに電話をかけると、どのアーロンが電話をとっているか判らない。
しかも、自己と分身の接触は禁止されているので、アーロン同士は連絡が取れない。
分身が何人登場しようと、アーロンは本来は1つであり、アーロンの認識がまちまちであることはあり得ない。
にもかかわらず、意志を持つ分身は勝手に行動し、とうとうアーロンは人格の統一がとれなくなる。

 この映画が描こうとしたのは、多分ここまでであろう。
だから、人格の分裂に耐えられなくなったアーロンは、最後に国外へと脱出しなければならなくなったのだ。
しかし、これをちょっと先に進めれば、根底的な近代批判になる。
無限の自己相対化が、人格の分裂をよび、人格の統一が維持できないことになる。
人間は唯一の存在であるという、近代の大前提が否定されざるをえない。
これは近代社会が維持できないことだ。
自己相対化が社会を滅ぼす。
監督は意図しなかったかも知れないが、これがこの映画の主題がもつ射程である。

 科学技術の進歩が、人類を滅ぼすいう映画はあった。
しかし、近代人の論理そのものが、崩壊を必然としているという映画は初めてであろう。
タイムマシンは論理的に不可能だろうが、認識構造が崩壊を不可避としているというのは、実に説得的である。
きわめて哲学的な映画であり、サンダンスで物議を醸すのは当然であろう。

 初監督作品で、低予算映画だからやむを得ないとはいえ、映画としては未完成な部分が多い。
どんな難しい主題でも、判りやすくは出来るし、より多くの人に見て欲しいがゆえに、判りやすく作るべきだと思う。
新たな地平を見せた映画には、星を献上するこのサイトとしては、星を献上せざるを得ないので星を献上しはする。

 この映画でスポンサーが殺到するだろうから、今後もう一度作り直して欲しい。
マクマレン兄弟」のエドワード・バーンズ監督のように、初作品で秀作をものにしながら、監督として自滅してしまう人もいる。
思考者としての力量は判ったが、映画監督としての表現力を付けて欲しい。
次作目まで仮の星としておきたい。
2004年アメリカ映画
(2005.10.2)

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