タクミシネマ           マクマレン兄弟

 マクマレン 兄弟    エドワード・バーンズ監督

  ジャック、バリー、パトリックの三人の兄弟が、個人的な問題に悩む姿を描いたものである。
アメリカの平均的な男性三人が、実にまじめに人生を生きていることが良く伝わってくる。
三兄弟に限らず登場する普通の人々が、自分の生き方や考え方を、しっかりと持っていることは感心させられる。
それをストレートに表す若い監督。
この映画には、有名な俳優は登場しない。
近所の知り合いや、友達だけである。

 最初のシーンが、お父さんを埋葬した後、お母さんの「35年間、お父さんと一緒に暮らしてきたが、お父さんは死んだ。これからはアイルランドに住む恋人と一緒に暮らす。おまえたちは、私のような間違いを犯さないように」という台詞で始まる。

 形式的な家族を否定して始まるこの映画には、パトリックの元恋人がユダヤ人なので結婚を考えるが、ほかの恋人たちは結婚するそぶりさえ見せない。
恋人であることはとても大切にするが、それが結婚には結びつかない。
温かい人間関係に飢えていながら、家族を指向できない世代の悩みである。

 
劇場パンフレットから

 長男ジャックは、結婚五年目にして初めて浮気をするが、奥さんのモリーを愛しているので、愛情と肉欲のあいだで悩む。
不倫即決別となるアメリカでは、事は重大である。
不倫相手のアンがよかった。
気に入った相手と簡単に性交するので、離婚されたといって恥じない姿勢には、すがすがしさを感じる。

 彼女は、性交と夫婦愛は関係ないという。
ジャックを誘惑しておきながら、ジャックの悩みに引き込まないで欲しいと言うのは、アンの言い分が正しい。
今のアメリカでは性交を夫婦愛の担保とするが、やがて性交と夫婦愛は切り離されるだろう。
精神活動の自立が、愛情は愛情として純化させ、アンの生き方が市民権を獲得する。

 次男バリーは、経費節減のため監督自身が演じており、そのぶん人間の分析が浅い。
しかも、恋人になる女性は実生活でもほんとうの恋人だとか、二人共ぎくしゃくした演技である。
演技とは虚を演じることであり、実生活を引きずることは、上手くいくとは限らないようである。

 三男のパトリックが面白い。
時代錯誤にも、彼は熱心なカトリックの信者。
彼は恋人との結婚に迷っており、分かれる方に傾きつつある。
たった一度の性交で妊娠してしまうが、妊娠した恋人は、妊娠をかくしたまま分かれるという。
パトリックは捨てるつもりが捨てられたので、彼女への執着心が出る。
21才で子持ちなんて、とんでもないと思う彼女は中絶するつもりだが、パトリックは中絶を認めないだろうから、分かれるのだった。
流産したので、関係が戻りそうになるが、結局二人の関係は破談になる。

 パトリックの次の恋人が、高校の幼なじみで、彼女は結婚式の朝、結婚をキャンセルしたのだという。
彼女もカトリックだったが、もはやそうではないという。
その理由がおかしかった。
カトリックは、婚前交渉もダメ、不倫もダメ、マスターベーションもダメという。
これでは健康なセックスができないと思って、カトリックをやめたという。
自分の考えが実にはっきりしている。それがいい。

 現代と、まともに取り組む監督の姿勢が、画面から感じられる。
必死で生きる証明を求める姿は、現代を生きる誰にも共通のものだから、そのままで共感できる。
登場する人間関係も、お母さんたちの大家族は論外と前提したうえで、古き良き核家族、単身生活者、未婚者など時代模様そのままである。
どれに対しても、やさしい理解とまじめな抵抗を示すX世代の揺れが良く判る。
新たな人間関係の構築には、簡単に解答は誰にもだせないが、試行錯誤する状況がしばらく続くだろう。

 いい映画は、お金をかけるか否かではない。
それは知っていても、いつの間にかお金がなければ、何もできないように教育されてしまった。
この映画は、家族総出の手弁当スタイルで、200万円で製作されたという。
画面からもオールロケで、お金がかかっていないとはわかるが、それは観終わってパンフレットを読んで判る話である。
この映画と良く似たメジャー映画に、「ブルー イン ザフェイス」があるが、内容に遜色はない。
せいぜい出演する俳優に違いがあるくらいである。

 映画が最後によるところは、優れた脚本である。
この映画はそれを如実に教えてくれる。
映画の出来不出来は、映画を作る人間が、この映画で何を訴えたいか、それに尽きる。
少しくらい撮影が下手でも、演技がぎこちなくても、セットが貧弱でも、そんなことは二の次三の次である。
事実この映画でも、画面のピントがあってない感じがしたし、素人の演技はぎこちなかったが、そんなことはすぐに気にならなくなった。

 ハリウッド映画には、若いカップルが圧倒的に多いが、この映画は一人の若い女性が多かった。
映画が好きな女性が、一人で映画を見に来るという、個人化した社会に日本もなってきている。
ここにきている女性たちは、アメリカ人のようにそれを口にはできないかもしれないが、自分の好みがはっきりしているのではないだろうか。
こんなマイナーな映画を捜してくる女性たち、日本にも映画を支える潜在層はいる。

 総合職として男性に互して働く女性が、男性なみの働きをしているうちに、女のおじさんにならないことを祈りたい。
仕事のみに人生を捧げて、豊かな人生になるはずがない。
映画、小説、絵、音楽、写真、舞台などなど、表現の世界に触れ続けることが、人間を懐の深いものにする。
映画を観ない建築家、本を読まない重役、絵を好まない教師など考えられない。

 この映画を一人で見に来ている女性たちが、いつまで映画を見続けるであろうか。
ぜひ一生のわたって、観続けて欲しい。
映画館にきているのは、いつも若い人が多く、大人たちは何をやっているのかと不思議である。
柔らかい感性が、年齢とともに堅くなるのは、生理的な必然性があるのではなく、怠惰がなさせるのである。
現代の大人たちに知的好奇心が欠如している理由は、年長者崇拝という儒教的な背景が、年長者を甘やかす構造に転化しているからである。
農耕社会の年長者は、芝居も観たし、小唄や字も上手かった。

1995年のアメリカ映画。


TAKUMI シネマ>のおすすめ映画
2009年−私の中のあなたフロスト/ニクソン
2008年−ダーク ナイトバンテージ・ポイント
2007年−告発のときそれでもボクはやってない
2006年−家族の誕生V フォー・ヴァンデッタ
2005年−シリアナ
2004年−アイ、 ロボットヴェラ・ドレイクミリオンダラー ベイビィ
2003年−オールド・ボーイ16歳の合衆国
2002年−エデンより彼方にシカゴしあわせな孤独ホワイト オランダーフォーン・ブース
      マイノリティ リポート
2001年−ゴースト ワールド少林サッカー
2000年−アメリカン サイコ鬼が来た!ガールファイトクイルズ
1999年−アメリカン ビューティ暗い日曜日ツインフォールズアイダホファイト クラブ
      マトリックスマルコヴィッチの穴
1998年−イフ オンリーイースト・ウエストザ トゥルーマン ショーハピネス
1997年−オープン ユア アイズグッド ウィル ハンティングクワトロ ディアス
      チェイシング エイミーフェイクヘンリー・フールラリー フリント
1996年−この森で、天使はバスを降りたジャックバードケージもののけ姫
1995年以前−ゲット ショーティシャインセヴントントンの夏休みミュート ウィットネス
      リーヴィング ラスヴェガス

「タクミ シネマ」のトップに戻る