|
|||||||||
31歳の新人監督の第一作だそうで、アメリカでは最初11館のロード・ショーで始まったのが、口コミで531館の上映に広がったという。 きわめてシャープな感覚の感覚の作品だと思う。 主人公のレナード(ガイ・ピアース)は、自宅で就寝中に、奥さんが強姦され殺されてしまう。 そのとき彼は、賊に頭を殴られて気絶し、10分間しか記憶が保てないという後遺症をおってしまう。 その身体で、彼は復讐に燃え、犯人を捜し始める。 それがストーリーなのだが、犯人らしき男を射殺したシーンが、逆回転で上映されて映画は始まる。
奥さんが殺されるまでの記憶はしっかりとしているが、なにせ10分間しか記憶が残らないので、さっき会った人すら覚えることができない。 敵か味方化の判断も、たちまちその記憶が消えてしまう。 そのため、メモとポラロイド写真を使って、事実を記録しながらの、追跡捜査である。 これだけなら少し変わった設定というにすぎないが、映画の作りが時間的に前後するのである。 まず事実が描かれると、その直後に時間が戻り、いったん描かれた事実の説明がはじまる。 事実を見せて、その説明があり、また事実を見せて、その説明といった形で、映画は常に一度戻る形で進んでいく。 この展開に戸惑う。 映画を見ているうちに、観客は何がほんとうで、何が嘘なのだか、皆目見当がつかなくなる。 そして、今のシーンは時間がどこなのか、判らなくなってくる。 ふつうセピア色の画面が挿入されるときは、回想とか想像なのだけれど、この映画では近い過去を表す。 物語が進むうちに、最初に殺された男はテディ(ジョー・パントリアーノ)といって、警察官だということが判る。 しかし、話は戻っており、死んだはずのテディが、レナードの前に何度も登場する。 この映画の主要な登場人物は、主人公のレナード、テディ、それにナタリー(キャリー=アン・モス)という女性しかいない。 ナタリーも不思議な人物で、レナードの味方のようでありながら、敵対的な行動も見せる。 レナードには記憶が10分間しか残らないから、すべての行動が一からやり直しである。 まず朝起きたところが、どこだかわからない。 会う人はいつも新顔である。 さっき会っても、10分後には誰だか思い出せない。 もちろん場所の記憶もない。 ポラロイド写真が頼りである。 そして、写真の裏に書いたメモが、彼の行動指針である。 電話では、相手が誰だかも記憶できない。 かつて記憶があった時代、レナードは保険の調査員だった。 現在の彼と同じように、記憶を保てない男性サミー(スティーブン・トポロウスキー)からの、保険金の支払い請求を調査していた。 記憶喪失は事故による後遺症だというが、保険金詐欺ではないかと、保険会社は疑っていた。 その時代の話がかぶさってくる。 テディはレナードに記憶がないことを知っているので、レナードをからかうような態度を見せながら、彼の捜査に協力する。 テディは、最初は情報屋といっていながら、いつの間にか警官だという。 金と麻薬がからんできて、話はもうややこしくなるばかり。 観客は筋を追えなくなる。 とうとうレナードは、犯人とおぼしき人間を殺してしまうが、殺したこともたちまち忘れてしまう。 ただ時間が前後しながら進む展開と、記憶にかんする哲学的な考察が、主題だったのだと思う。 10分という時間しか記憶が残らないと言うのは、記憶にかんする設定としてはおかしい。 しかし、この設定によって、記憶の輪郭がうかびあがって、この設定の効果が上手くきいている。 事実は存在しない。 記憶に残らない現実は、当人にとって無意味である。 どんな事実も、記憶という回路に入っているから、意味をもつのである。そう言っているようだ。 忘れてしまうので、忘れないようにとメモをするが、そのメモ用紙すら忘れてしまう。 彼はとうとう入れ墨という形で、自分の身体にメモしていく。 しかし、メモに意味づけするのも、自分の記憶である。 難しい映画だが、いわゆる前衛映画と違って、きちんとした脚本とカメラワークである。 やや深読みすれば、メモリーに格納される事実というか、メモといった情報が意味をもち、現実がセピアになっていく。 そういった現代的な現実認識を、この映画は問うているように感じる。 絶対時間が消失し、個人のなかにだけ時間が、こまぎれに存在する。しかも、人は自分勝手に、自分の時間を生きる。まさにコンピュータ世代の感覚だろう。 この映画を読み込んでいくと、恐ろしい現代社会の様相が見えてくる。 短時間の記憶という観念だけが、自立的な意味を持つのだが、その記憶すら断片でしかなく、それぞれには軽重があるわけではない。 それでいながら、メモリーの記憶に従って人を殺したりする。 メモリーの記憶が、現実の社会を動かしている。 記憶が残らないと、レナードのように復讐心は、永遠に満足させることはできない。 記憶がリセットされて、何人でも殺してしまう。 つまり記憶は、連続することによって意味づけられ、事実の相互に関連ができる。 虚と実がない交ぜになった現代を、記憶の喪失といった形で描いている。 思考の回路が、土着性から離れ、断片化したメモリーとなっている。 人間のなかに一本の核がどっしりとあるというのではなく、メモリーとメモリーをつないで発展し、またつなぎなおして思考が進む。 そんな構造なのだろう。 いままで現実から観念=言語は構築されてきたが、現実に対応関係を持たない機械言語が現実を動かす。 観念が現実を再構成していくコンピュータ社会の到来である。 情報社会とは、倒錯を生きていく。こうした主張の映画は、これからも次々とでてくるだろう。 斬新さに星一つをつけるが、もう一作見てから監督の力量を判断したい。 2000年のアメリカ映画 |
|||||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||||||
|