タクミシネマ         メメント

メメント     クリストファー・ノーラン監督

 31歳の新人監督の第一作だそうで、アメリカでは最初11館のロード・ショーで始まったのが、口コミで531館の上映に広がったという。
きわめてシャープな感覚の感覚の作品だと思う。

 主人公のレナード(ガイ・ピアース)は、自宅で就寝中に、奥さんが強姦され殺されてしまう。
そのとき彼は、賊に頭を殴られて気絶し、10分間しか記憶が保てないという後遺症をおってしまう。
その身体で、彼は復讐に燃え、犯人を捜し始める。
それがストーリーなのだが、犯人らしき男を射殺したシーンが、逆回転で上映されて映画は始まる。
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 奥さんが殺されるまでの記憶はしっかりとしているが、なにせ10分間しか記憶が残らないので、さっき会った人すら覚えることができない。
敵か味方化の判断も、たちまちその記憶が消えてしまう。
そのため、メモとポラロイド写真を使って、事実を記録しながらの、追跡捜査である。

 これだけなら少し変わった設定というにすぎないが、映画の作りが時間的に前後するのである。
まず事実が描かれると、その直後に時間が戻り、いったん描かれた事実の説明がはじまる。
事実を見せて、その説明があり、また事実を見せて、その説明といった形で、映画は常に一度戻る形で進んでいく。
この展開に戸惑う。


 行きつ戻りつする上に、それ以前の話が、セピア色の画面でかぶさる。
映画を見ているうちに、観客は何がほんとうで、何が嘘なのだか、皆目見当がつかなくなる。
そして、今のシーンは時間がどこなのか、判らなくなってくる。
ふつうセピア色の画面が挿入されるときは、回想とか想像なのだけれど、この映画では近い過去を表す。

 物語が進むうちに、最初に殺された男はテディ(ジョー・パントリアーノ)といって、警察官だということが判る。
しかし、話は戻っており、死んだはずのテディが、レナードの前に何度も登場する。
この映画の主要な登場人物は、主人公のレナード、テディ、それにナタリー(キャリー=アン・モス)という女性しかいない。
ナタリーも不思議な人物で、レナードの味方のようでありながら、敵対的な行動も見せる。

 レナードには記憶が10分間しか残らないから、すべての行動が一からやり直しである。
まず朝起きたところが、どこだかわからない。
会う人はいつも新顔である。
さっき会っても、10分後には誰だか思い出せない。
もちろん場所の記憶もない。
ポラロイド写真が頼りである。
そして、写真の裏に書いたメモが、彼の行動指針である。
電話では、相手が誰だかも記憶できない。

 かつて記憶があった時代、レナードは保険の調査員だった。
現在の彼と同じように、記憶を保てない男性サミー(スティーブン・トポロウスキー)からの、保険金の支払い請求を調査していた。
記憶喪失は事故による後遺症だというが、保険金詐欺ではないかと、保険会社は疑っていた。
その時代の話がかぶさってくる。


 テディはレナードに記憶がないことを知っているので、レナードをからかうような態度を見せながら、彼の捜査に協力する。
テディは、最初は情報屋といっていながら、いつの間にか警官だという。
金と麻薬がからんできて、話はもうややこしくなるばかり。
観客は筋を追えなくなる。
とうとうレナードは、犯人とおぼしき人間を殺してしまうが、殺したこともたちまち忘れてしまう。

 すこぶる難しい映画で、きちんと筋が追えなかったが、おそらく筋はどうでも良いのだろう。
ただ時間が前後しながら進む展開と、記憶にかんする哲学的な考察が、主題だったのだと思う。
10分という時間しか記憶が残らないと言うのは、記憶にかんする設定としてはおかしい。
しかし、この設定によって、記憶の輪郭がうかびあがって、この設定の効果が上手くきいている。

 事実は存在しない。
記憶に残らない現実は、当人にとって無意味である。
どんな事実も、記憶という回路に入っているから、意味をもつのである。そう言っているようだ。
忘れてしまうので、忘れないようにとメモをするが、そのメモ用紙すら忘れてしまう。
彼はとうとう入れ墨という形で、自分の身体にメモしていく。
しかし、メモに意味づけするのも、自分の記憶である。

 難しい映画だが、いわゆる前衛映画と違って、きちんとした脚本とカメラワークである。
やや深読みすれば、メモリーに格納される事実というか、メモといった情報が意味をもち、現実がセピアになっていく。
そういった現代的な現実認識を、この映画は問うているように感じる。

 絶対時間が消失し、個人のなかにだけ時間が、こまぎれに存在する。しかも、人は自分勝手に、自分の時間を生きる。まさにコンピュータ世代の感覚だろう。


 この映画を読み込んでいくと、恐ろしい現代社会の様相が見えてくる。
短時間の記憶という観念だけが、自立的な意味を持つのだが、その記憶すら断片でしかなく、それぞれには軽重があるわけではない。
それでいながら、メモリーの記憶に従って人を殺したりする。
メモリーの記憶が、現実の社会を動かしている。

 メモリーの記憶はスイッチを切れば、リセットされて白紙になり、情報はハードディスクのなか以外には残らない。
記憶が残らないと、レナードのように復讐心は、永遠に満足させることはできない。
記憶がリセットされて、何人でも殺してしまう。
つまり記憶は、連続することによって意味づけられ、事実の相互に関連ができる。

 虚と実がない交ぜになった現代を、記憶の喪失といった形で描いている。
思考の回路が、土着性から離れ、断片化したメモリーとなっている。
人間のなかに一本の核がどっしりとあるというのではなく、メモリーとメモリーをつないで発展し、またつなぎなおして思考が進む。
そんな構造なのだろう。

 いままで現実から観念=言語は構築されてきたが、現実に対応関係を持たない機械言語が現実を動かす。
観念が現実を再構成していくコンピュータ社会の到来である。
情報社会とは、倒錯を生きていく。こうした主張の映画は、これからも次々とでてくるだろう。
斬新さに星一つをつけるが、もう一作見てから監督の力量を判断したい。

 2000年のアメリカ映画        

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