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 戦場のピアニスト    ローマン・ポランスキー監督

 実話に基づいた話だと言うが、なんと不愉快な映画であろうか。
もちろん、主人公の過酷な運命には心から同情するし、ナチ・ドイツの残虐な行いを肯定するからでもない。
この映画がユダヤ人の歴史の正当化のためだけに、ユダヤ人たちの受けた弾圧を宣伝するためだけに、つまりユダヤ人のためだけに作られていることに不快感を持つのである。
戦場のピアニスト [DVD]
劇場パンフレットから

 ユダヤ人である主人公ウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)は、ポーランド国籍のピアニストでワルシャワに住んでいた。
1939年のナチ侵攻以来、彼は家族を失いながらも、辛うじて本当に奇跡的にワルシャワで生き延びる。
それはそれは過酷な運命を強制された。
映画が描くのは事実だったろうし、もっと過酷だったかもしれない。
あまりにも悲惨な体験をしたこと、それは同情にあまりある。

 しかし、実在のシュピルマンがたどった道と、映画が作られるのは、まったく違う論理が働くものだ。
どんな事実を下敷きにしても、映画はフィクションであり、そこには制作者たちの意図がある。
観客は映画製作者の意図に感激するのであり、元になった事実に打たれるわけではない。
だからこそ映画製作者たちには、神に代わる創造の自由が許されている。
にもかかわらず、この映画はナチによるユダヤ人狩りを、ただただ感情に訴えて指弾し、返す刀でユダヤ人を正義の民族だと歌い上げている。


 共産党の宣伝映画が、表現として低い次元でしか評価できないのと同様に、ユダヤ人の宣伝映画も宣伝映画であるがゆえに、低い評価でしかない。
古くは「ひまわり」や、最近では「初恋のきた道」のようにうまく作られた映画は、あまり宣伝臭を感じさせないから、鈍感な評論家たちは簡単にだまされる。
しかし、企業の宣伝映画を誰も芸術表現だとは言わないのと同様に、宣伝映画ははじめから芸術表現ではない。

 「シンドラーのリスト」などをはじめとして、ユダヤ人たちは豊富な資金にまかせて、虐待された事実を描く映画を作り続けて生きた。
ユダヤ人映画のすべてが、映画として見るに耐えないと言うわけではない。
このサイトが宣伝映画として断罪するのは、事実を一方的にしか見ず、自己の存在を全面的に肯定するものである。
いかなる事実にも肯否の両面があり、その解釈にあたっては相対的な批判が不可欠である。

 この映画は、冒頭から下品で邪悪なドイツ人と、正しく弱いユダヤ人という構図を設定し、終始そこから出ることはない。
絶対の正義と、絶対の悪が対峙する構造など、この世の中にあるはずがないにもかかわらず、この映画は正しく弱いユダヤ人を描く。
ユダヤ人が警察としてナチに協力したのは、むしろユダヤ人の弱さとして強調されている。
ユダヤ人は決して弱くない。


 ユダヤ人はむしろ強い。
彼らが他民族を弾圧することは、現代の中東事情を見れば一目瞭然で、ユダヤ人が正しく弱い民族であるはずがない。
ユダヤ人たちは選ばれた民族だという錯覚があるから、自意識過剰で傲慢な映画を平気で作れるのだろう。
この映画でも、シュピルマンを命がけで匿ってくれたポーランド人に対する感謝は、まったく触れられていない。

 匿った人たちは、匿ったという理由によって、処刑されていった。
自分たちの生きることが、優先するのは仕方ないとしても、匿う行為によって命を落とすこともある。
にもかかわらずポーランド人も、ユダヤ人を助けている。
ジプシーやクルド人・チベット人などに比べると、むしろユダヤ人の強さが目立ちさえする。
次々と宣伝映画が作れるのは、ユダヤ人の強さの証明だろう。

 映画の主題にふれるまえに、映画が作られる背景だけで、厳しい評価をしてきたが、当然のこととして主題も評価の対象にならない。
誤解してほしくないのだが、シュピルマン氏の人生について云々しているのではない。
この映画の主題が、表現として最悪であると言っているにすぎない。
ユダヤ人である制作者たちが、莫大な制作費をかけて宣伝する姿勢自体に、表現の本質を見ることはできない、と言っているのである。

 老獪と言っていい年齢のポランスキー監督だから、技術的には見るべきものがある。
シュピルマンを演じたエイドリアン・ブロディの、壮絶ともいえるダイエットは、ロバート・デ・ニーロのそれをも凌ぐし、また時代考証も入念にされている。
映像としても美しい画面が多く、とくに雪の扱いは実にうまい。
フランス映画としては、SFXの使い方も自然である。
しかし、二時間半の上映時間は長く、テンポの鈍さに年齢を感じる。


 特筆されるのは、ピアノのすばらしさである。
シャイン」や「海の上のピアニスト」など、ピアノをあつかった映画は多いが、この映画のピアノはそれらに勝るとも劣らない。
あのぶあつい音は、まさに男のピアノである。
厚く力強い音で、圧倒的に迫ってくる。
ヤーヌシュ・オレイニチャクとクレジットされていたが、このピアノは聴くに値する。
とりわけ終盤で演奏されるピアノは、素晴らしいの一語につきる。

 ところで、我が日本軍ならどうであったろうか。
日常になっているという意味では、日本人にはピアノといった西洋楽器が、身にしみているということはない。
ショパンが血肉となっている日本人などいない。
国民共通の音楽を日本人は持っていない。
一時期なら美空ひばりが、国民的な音楽だった。
おそらくショパンが、ポーランドの美空ひばりだったのだろう。

 我が国の戦前を想像すれば、三味線あたりが民族楽器だったろうが、中国兵には三味線の良さは理解されなかったろう。
だから戦場で敵兵が、敵兵の演奏する音楽を聴いて、感激する構造が成り立たなかったはずである。
そうした意味では、ポーランド人もドイツ人も、同じ文化圏に属する。
ヨーロッパ人たちは、共通の文化圏に住んでいるのだ。
もちろんユダヤ人もヨーロッパ人だと、この映画は主張しているに違いない。

 不思議なことに、フランスとポーランドの合作であるにもかかわらず、この映画も台詞は英語だった。
しかも主人公には、アメリカ人をキャスティングしている。
このあたりにヨーロッパのプライドが、屈折していること見て取る。
それにしても、ユダヤ人はしつこい。
この映画を見ると、なぜユダヤ人が世界中で嫌われるのか、朧気ながらわかるような気がする。
2002年のカンヌで、パルムドール賞をとったが、最悪の映画だった。

 2002年フランス・ポーランド合作映画

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