タクミシネマ         初恋のきた道

初恋のきた道      チャン・イーモウ監督

 よくできた宣伝映画であり、途上国性が美しくて退屈である。
この映画を見ると、近代がどんなものだったかよくわかる。
近代は豊かな生活を人々に与えたが、それ以前まで長く続いてきた文化を、完全に切断してしまった。
そして、遅れた近代化つまり途上国における近代化は、国家からの外部的な注入になるのも、わが国と少しも変わらない

 中国の田舎の村に、新しく小学校の先生チャンユー(チョン・ハオ)が来る。
それで村にも、はじめての小学校がつくられる。
一部屋だけの学校、一人だけの先生でも、この村では初めての出来事である。
その先生に、村の女の子ディ(チャン・ツィイー)が惚れ込み、必死で彼氏の関心をひこうとする。

 彼女の努力は実り、めでたく結婚できた。
そして、正しい彼等は、正しく子供をひとりつくる。
結婚して40年がたった。
一人息子のルオ(スン・ホンレイ)は、街にでて働いている。
40年は人を老いさせるのに充分である。
そのチャンユー先生が死んだ。
葬式に駆けつけた息子ルオの回想というかたちで、映画は進む。


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劇場パンフレットから
 村で何かをつくるときは、男性たちが力を出しあって協同作業をした。
学校をつくるときも同様である。
男性たちの力仕事を支えるのが、女性たちの仕事であった。
つまり、食事を作ったり、そこで使われる布を織ったりした。
男性の力仕事に支える女性たちという、こうした村落共同体のありかたは、わが国とまったく同じである。

 先生に惚れ込んでしまったディは、何が何でも彼の愛情を獲得しようとする。
そして40年後の今、夫であり先生であったチャンユーの来た道を辿って、葬式をだしたいディの希望が叶えられる。
この映画は、それを美しい農村風景の中でみせる。

 まず何よりも、学校なるもので子供たちに教育を受けさせるのは、きわめてお金のかかることがわかる。
貧しい村は、学校もなければ、教えるだけの人間を養うことができない。
教えるだけの人間は、農業という生産労働に携わっていない。
農民たちの働きの上前で生きているのだ。生産力に余裕がなければ、教えるだけの人間を養えない。
かつては教えるだけの人間はおらず、働く人間が働くことを通して教育してきた。
それが前近代の教育だった。

 各家々に個別性があるので、さまざまな教育がなされた。
農業に文字は不要だった。
だから、誰でもが文字が読めたり、計算ができるようになるわけではない。
必然的に、文盲が多かった。
しかし、文盲だからといって、人間性が低かったわけではない。
文字を読む必要性がないところでは、それ以外の生活力という資質が要求されたのだ。
文字が読めなくても、人格が高邁な人はいくらでもいた。

 近代の労働者になるには、文字が読め演算力が必要になった。
文盲退治こそ、近代化する決め手だった。
この映画のなかで、先生はさかんに文盲退治と計算能力の涵養をうたう。
近代が自然発生したところでは、自前の教育が誕生した。
自分たちの子供たちは、自分たちがお金をだして教育した。
だから私立学校として、近代教育は始まった。
近代国家の誕生より、近代をめざした教育のほうが先に始まった。


 しかし、わが国を初めとして、遅れて近代化に踏みだしたところでは、先に近代国家があった。
そして、国家間の国際競争として、つまり国家の意思として、国民教育が始まった。
中央政府から先生が派遣され、より価値の高いものの象徴として、学校の先生が登場した。
この映画でも、先生が水汲みにいこうとすると、そんなことは自分がやるといって、先生に水汲みにいかせないシーンがある。
肉体労働は農民がやり、知を扱うのは高等な先生だというわけである。

 学校教育を受けた子供たちは、ルオのように街にでてしまい、親たちの希望とは無関係に生きていく。
親たちの希望を裏切って、生きていかざるを得ない。
学校教育の浸透は、村の産業が死滅することの前ぶれである。
子供たちは学校を卒業すると、村を離れ都会に働きに行ったまま、もう村には帰ってこない。

 学校は農業従事者を殺し、都市への人口集中を促進している。
しかし、農民を少なくしないと近代化はできないし、近代化しないと近隣諸国との抗争に負ける。
負けると、その国は貧しいままで、乳幼児死亡率は高く、人は寿命をまっとうできない。
前近代の農業生産は、自然の気まぐれに翻弄され、人は飢えに怯える。
精神的な幸福感は別として、裕福になることが最低の生活保障につながるのだ。
いかなる政府も競って近代化をめざした。

 この映画では、寒さ、紅葉、稔りと、自然の動きが何度も描写される。
そして、中央から来た学校の先生と近代化、それに憧れた女性といった、きわめて通俗的な心性が美しく描かれる。
近代化のすべてを肯定するこの映画は、まだ近代化の裏面には無関心である。
だから先進国から見れば、女性の描き方がとても差別的である。

 女性はまったく主体的に行動しない。
いつも待つだけの存在である。
女性は穢れているといった理由で、学校建築に参加できなかった、とナレーターがいっている。
それで女性への差別を、認識していますといっているのだろう。
古い時代は、女性が差別されたと言っているのだろう。
しかし、待つだけの女性ディが、ただひとつ主体的に行動するのは、サカリがついたように男を追うことである。
恋といってしまえば綺麗だが、彼女の行動は繁殖をめざす動物と何ら変わりがない。

 農村であっても、女性にも仕事があったはずで、それがまったく描かれていない。
男性を追うことにだけ明け暮れて、彼女の日々の仕事がない。
女性も村落共同体を支える一員だったことは間違いなく、生産労働に従事していた。
働かない者を養えるほど、農村は豊かではない。

 この映画では結婚後も、彼女の仕事はない。
ただ夫に尽くすだけ。
教師の男性と結婚しながら、ディはいつまでも文盲である。
恋愛を美化するのは、女性に対する近代の落とし穴である。
恋愛に憧れさせることによって、女性から社会性を奪っていく。
愛する夫に尽くす女性という美しいイメージをつくって、社会的生産活動から女性を排除する。
生産活動から排除された女性の発言権は、急速に低下する。
この映画を女性蔑視の映画と言わずして何といおう。


 映画表現として、美しい自然の描写に力を注いだのはよく判る。
たわわに実った稲穂がなんどもでてくる。
そして、美しい自然の中に、美しいディをおきたかったのもよく判る。
女性を夢見心地にして恋愛に憧れさせるには、画面を美しく描く必要がある。
自然賛美、労働賛美である。

 しかし、ディの指は細く華奢で、肉体労働者のそれではなかったし、着ているものがいつも新品で絵空事のようだった。
農村社会で着るものは垢で汚れ、すり切れて幾重にもつぎがあたっている。
そして、農村にもどろどろした嫉妬が渦巻いているはずである。
自由恋愛の伝統のない村で、ディの恋心が簡単に成就するはずがない。
そう見るとこの映画の意図が、どこにあったかよく判る。

 共産党支配下の農村部では、こんなに美しい人間愛が実現されていたという、これは一種の宣伝映画だろう。
だから、登場する人間には何の葛藤もなく、恋愛という近代の気まぐれを、こうも単純に肯定できる。
そして中国には、まだ前近代がどっかりと居座っているので、先生の死には棺を担ぐためにたくさんの教え子が参集する。
この映画が中国で歓迎されたとすれば、今の中国はわが国の1960年代と、同じ近代化段階にあると言える。

 この映画を見る限り、映画が政治的な宣伝に使われている。
解放直後は、労働力不足から女性も、肉体労働者として働き手だった。
中国では、夫婦の共稼ぎが普通で、一人子政策がとられてきた。
しかし、近代化が本格的に始まり、裕福になり始めた。
ここで男女の性別による、役割分担が始まろうとしている。
どこでも近代が進むと、女性の地位は下がるのだ。
この映画は、働く女性の家庭回帰を、暗に示唆しているように思う。
いまの中国では表現が何であるか、未だ理解されていない。

 この映画では、ディが走るシーンが何度もでてくる。
彼女の走り方がナンバだった。
若い時代のディ(チャン・ツィイー)だけではなく、年老いたディ(チャオ・ユエリン)もナンバ歩きだった。
わが国の農民の歩きかたが、ナンバだったことは周知だが、農村部ではどこでも同じナンバ歩きだったのだろうか。

2000年の中国・アメリカ映画

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