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アメリカはメイン州の小さな街、カムデンでの話である。 大学生のフランク(ニック・スタール)は、まだ離婚はしていないが、すでに別居した人妻ナタリー(マリサ・トメイ)と恋におちた。 彼は大学院に進むのをやめて、地元で漁師になろうとすら考えていた。 両親は彼の行動を、やや心配げに見守っていた。 その彼が、前の夫リチャード(ウィリアム・マボーザー)に殺される。
子供を殺された両親は落胆し、生きる張りを失ってしまう。 父親マット(トム・ウィルキンソン)は理性的に静かに悩んでいる。 母親のルース(シシー・スペイセク)は感情的に、あたりかまわず悩みを広げる。 子供の死は、二人のあいだに波風を立てる。 とある深夜とうとうマットは、リチャードを殺しにいき、地中に埋めて帰ってくる。 ベッドに横たわった彼の顔を、カメラがじっと撮して映画は終わる。 最近のアメリカ映画は、親子の問題を描くものが多い。 だから最初のうちは、二人も子供がいる年上の人妻に、恋した若者の話かと思ってみていると、話は徐々に両親のほうへ移っていく。 最後になって、子供を殺された親が、いかに悲しみ落胆し、犯人を殺すに至るかといった、古典的な心理劇であることがわかる。 だから、前近代の農耕社会を色濃く引きずるわが国では、子供は親に育ててもらった恩があると教育してきた。 親にとって、子供は老後の保障だったから、子供が親を見捨てることのないように、恩返しを刷り込んだ。 それによって家の継続をはかり、自分たちの老後の保障とした。 前近代をもたず、近代から始まったアメリカでは、家の継続はあまり問題視されなかった。 家が生産組織だった時代が短かったので、子供に老後の保障を求めることがなく、そのため子供に恩返しを要求することは少なかった。 むしろ、子供は独立して家から出ていくと見なされていた。 だから子供や子育ては、親の精神的な楽しみであり、癒しと考えられてきた。 この映画でも、幼い時代が楽しげに回想される。 両親はフランクに暖かいまなざしを投げかけ、子供の職業選択を遠くからみている。 父親のマットは医者だが、診療所勤めであり、自分の仕事を子供に継がせることはない。 母親のルースも学校でコーラスを教えている。 フランクの家庭はインテリのそれであり、典型的な核家族である。 家が生産組織だった大家族の時代、家族の構成員は子供を含めて、全員が労働力であり経済的な存在だった。 もちろん、親しみといった感情はあっただろうが、家族は必ずしも愛情によって繋がる必要はなかった。 家族は経済生活の必要上から同居していた。 その頃は、家から出たら生活できないのだから、誰も家を出ようとは思わなかっただけで、今日の家族観とは大いに異なっていた。 とりわけ女性が自立して以降、男女が一緒に住む経済的な必然性はなくなった。 女性も経済力があるのだから、独力で生活できる。 家の保護がなくても、各人が生活可能な時代には、男女が同居する理由はかつてと違う。 ここでは各人が、愛おしいから同居するのであり、愛情という精神的なつながりだけが、家族をつないでいる。 核家族にとっては、子供の意味も違う。 大家族では子供も小さな労働力だったが、核家族では家の中に子供の働く場所はない。 社会福祉の発達した現在、子供は親の老後を見るものでもない。 今では、子供とは生きているだけで許されるもの、汚れなき天使のような存在である。 核家族にあっての子供の存在理由とは、愛情を注ぐ対象以外には何もない。 マットたち両親にとって、子供は精神的な支えだった。 子供の存在が、両親の心を安らかにし、生きる張りになっていた。 その子供が死んでみると、心の中に大きな空洞ができた。 愛情を注ぐ対象がなくなった。 いわば恋人を失ったのである。 子供の存在がいかに大きかったか、悲しみと寂しさが日を追って迫ってきた。 鬱積した心のやり場を、両親は見つけられずにいた。 子供は死んだが、犯人はわずかな懲役で出所してくる。 悲しみがやがて怒りに変わっていく。 そして、とうとうリチャード殺してしまう。 法の裁きを認めず、私刑にするわけだが、この映画もアメリカの保守回帰の、流れの上にあるのだろうか。 「クロッシング ガード」が同じように、子供の死をめぐる主題を扱っていたが、この映画はもっと心理描写に徹底している。 「判決前夜」や「陪審員」などとも違い、イデオロギッシュな臭いをすべて消し去り、人間の心の深層に迫ろうとしている。 マットとルースの近代人さと、家の中や小物を忠実に再現しているのと相まって、緊迫した感情を伝えてくる。 古い原作「殺人者」を下敷きにしているせいでか、今日的な雰囲気は薄い。 見終わってみると、古典的な心理サスペンスと言った感想が残る。 ナタリーを演じたマリサ・トメイは上手いが、この役を演じるにはすでに年齢がいっている。 父親マットを演じたトム・ウィルキンソンが秀逸だった。 2002年のアメリカ映画 |
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