タクミシネマ           判決前夜 〜ビフォア・アンド・アフター〜

判決前夜  ビフォア・アンド・アフター  
  バーベット・シュローダー監督 

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判決前夜 / ビフォア・アンド・アフター [DVD]
 「Before and After」と言う原題である。
子供が殺人を犯した時の親の対応を扱っている。
高校生の息子がガールフレンドといさかいになり、誤って彼女を殺してしまう。
事件の朝、父親と彼女のことで口論したこともあって、彼は親に助けを求められない。

 家に車を戻したまま、家から失踪する。
警察がきて、家の者は事件を知る。
子供の運転していた車を見せろというが、父親は令状なしの捜査には協力しないと宣言。
警官が帰った後で、車を調べると、血のついた手袋やジャッキがでてくる。

 ここから両親の対応が変わる。
父親は、法律を楯にして争おうとし、証拠隠滅と虚証で、息子の有罪をのがれようとする。
母親は正直に告白し、法の裁きに任せようとする。

 証拠不十分の不起訴をねらって、最初は父親の路線で走る。
しかし、子供は虚証の重圧に絶えられず、母親路線に転換して裁判にのぞむ。
結果は、証拠隠滅のため情状酌量が受けられず、五年の懲役。
父親も証拠隠滅のため、一年の懲役となる。

 父親的な愛情表現か、母親的な愛情表現かが、映画の鍵である。
それを妹の眼をとおして語る。
平凡な生活が、事件を前後してまったく変わってしまい、もう戻れないという妹のナレーションで映画は始まる。
両親の愛情表現をめぐる映画に見えるが、むしろ裁判映画である。

 この映画は、O・J・シンプソン裁判の影響を受けている。
この家庭は、父親が有名な彫刻家、母親が医者という裕福な家庭だから財力がある。
有力な弁護士を高額で雇って、裁判で無罪をかち取ろうとする姿勢を批判し、真実こそ貴いのだという主張のように見える。
裁判批判を、真実の告白に求めているのが、この映画の本当の主題である。

 裁判に対する批判の映画は多いが、そのいずれもが裕福な白人層を基盤として作られていることが不思議である。
O・J・シンプソンは黒人であり、たまたま裕福になったに過ぎないのに、裕福な白人たちが「陪審員」のような私刑の肯定、もしくは、この映画のように真実の告白を求めている。
白人たちは、自分たちの既得権が冒されることに、異常な恐怖心をもっている。
だから今まで、自分たちが黒人にしてきたことの反動を恐れているように見える。

 私刑の肯定と、正義と秩序の回復は楯の両面である。
それに家族愛を絡めるのは、いかにも口当たりの良いやり方だが、白人の保守的な姿勢があまりにも強い。
親子の断絶はどこにもあることであって、子供を愛していれば、子供を守ろうとするのは当然である。
その表現の仕方が違うだけである。

 愛情と社会正義の相克は親子間に限らず、愛する者の間では必ず成立する普遍的なテーマである。
愛する夫が殺人を冒したときに奥さんはどうするか、奥さんがしたときには夫はどうするか。
愛情と正義の間の確執でしかないものを、親子の愛情にすり替えているところに、不可解なものを感じる。

 裁判までの過程で、子供と父親との精神的なつながりが出来、どんな判決にも子供は父親の愛情を信じられるようになる。
それが家族愛だというのが疑問である。
精神的なつながりは、家族に限ったことではない。
むしろ、家族は血縁によりかかって、愛情表現をしなくても済んでしまうがゆえに、精神的な交流がなくなりがちである。

 よるべきものが、何もなくなりつつある現代に、家族だけは信頼できる関係だといいたいのは判るが、それはかえって人間不信になるだろう。
血縁という自然な支えを欠いた、脆弱な精神的な関係に頼らざるを得ないのが、今後の情報社会である。

 この映画で、父親が示す愛情は理解できる。
ああした形が今のアメリカだろうが、真実を隠すのが、またアメリカ建国の精神に反する。
しかし、母親は息子の告白を、息子の許可を得ずに公判で証言してしまう。
事実には殉じているかも知れないが、息子との信義はどうなのだろうか。
映画では、事実に殉じることが、息子への愛だと結論つけているが、それは疑問である。
母親は公判の前に、息子との精神的な関係を何も確認していない。

 母親は、無前提的に事実に殉じてしまい、愛情と正義の間で揺れる内面的な葛藤がない。
息子のプライベートな告白を、事実関係も確認せず、息子の許しを得ずに証言してしまう。
それが彼女の愛情表現だというが、彼女を信頼して打ち明けた子供の心はどうなるのだ。
父親が示した子供を守るためなら、自分の罪も厭わないという姿勢が、子供の信頼を得たのではないか。
誰だって子供を愛しているはずである。
子供の行いが親の生き方と錯綜したとき、親の言動が親の生き方を守るための行動となれば、子供との精神的な関係は作れないだろう。

 親は、警察の捜査に協力すべきではないし、子供を守るべきである。
母親の証言は、彼女の生き方を実践したものだが、それなら他人でもできる。
愛する者でも、正義の前には他人のごとくあれと言うのが主題ではないと思うので、母親の態度には疑問が残る。
結果としては、事実を告白すべきだとは思うが、母親は息子に自分の言動を事前に言うべきだった。
それが自分を信頼して、告白してくれた息子に対する義務だろう。  

 息子が自白して、未成年だから親のサインがいると言って、父親のサインを求める。
すでに心が通いあっている父と息子でありながら、父親はそのサインを拒否する。
あの姿勢に、強い信念を感じた。
子供が何才くらいまで、絶対的な保護者である姿勢が必要なのか判らないが、少なくとも絶対的な保護者であることを、親は子供に感じさせることが必要である。
伝わらない愛情はないに等しい。
1995年アメリカ映画。


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