タクミシネマ         ザ セル

ザ セル        ターセム・シン監督

 人間の頭のなか、つまり他人の意識のなかへ入りこむ話である。
植物人間化している少年の意識を回復させるために、キャサリン(ジェニファー・ロペス)は少年の頭脳のなかにはいる。
少年の意識は表にでてはこないが、内部でははっきりしているので、二人のあいだには会話が成りたつ。
しかし、少年はなかなかキャサリンに心を開かなかった。
そんなとき、精神疾患をもった人間スターガー(ヴィンセント・ドノフリオ)が、連続殺人事件をおこす。
人質の居所を聞きだすために、犯人の頭のなかに入ろうという展開である。


ザ・セル 〈特別プレミアム版〉 [DVD]
 
劇場パンフレットから
 映画の冒頭が、砂漠の景色で始まる。
ラクダでなく馬に乗った女性キャサリンが登場する。
白いドレスの彼女は馬から下り、砂漠の稜線を歩き始める。
すると馬が彫刻になって固定されてしまう。
この風景がとてもシャープで、とくに空の青がぬけがいい。
デジタル処理されているのかもしれないが、何とも言えない色である。
青い空のしたでは、砂漠の土が茶色に折れまがる。
砂丘が大きなブーメランのようにカーブし、幾何学的な景色を見せる。
単純だが、力強い画面である。

 珍しい色調の画面だなと思っていると、この映画はフジのフィルムを使っていた。
写真家の女たち」でもフジが使われていたが、最近はフジのフィルムが活躍している。
フジはアメリカでも、大サービスで売り込みをはかっているのだろう。
ポジフィルムをベルビアが席巻したごとく、コダックとは違う色調を歓迎する人もいるに違いない。

 この映画は、「羊たちの沈黙」と「マトリックス」を足したような設定である。
「羊たちの沈黙」では、殺人鬼レスター博士に犯人を捜させたが、この映画では犯人の意識のなかを探る。
それが虚実を行き来する「マトリックス」によく似ている。
殺人は現実におこっており、人質の命はあと何時間かしかない。
犯人だけしか知らない人質の居所を求めて、犯人の意識のなかという虚の世界に入る。

 しかし、意識のなかとはいえ、簡単には居所が分かるわけではない。
そして、虚実を行き来することによって生じる副作用がある。
夢を見ているときは現実だと感じているごとく、虚の世界を現実だと感じてしまう。
だから虚の世界に没入するのは危険である。


 殺人犯スターガーにも、少年時代がある。
スターガーの意識のなかに入ったキャサリンは、少年時代のスターガーと仲良くなる。
なんとかスターガーを救おうとし、それが虚の世界であることを忘れて、虚の世界に止まりそうになる。
外部からは彼女の世界が見えなくなる。
FBI捜査官のピーター(ヴィンス・ヴォーン)が、彼女を捜しにスターガーの意識のなかにはいる。
ここはちょっとお手軽に過ぎる。
結局、ピーターが手がかりをつかんで、事件は無事に解決する。

 科学的にいえば、意識の世界にはいるのは不可能だろう。
しかし、現実と観念が切りはなされた情報社会では、観念が観念だけで自立するから、この映画がえがくような世界もありうることになる。
少なくとも、脱肉体的な観念の操作だけで、現実という実態が動くのはあたっている。

 浮遊する観念の世界、自立する意識を、宙づりということに象徴させている。
重さがないことの表現が、ピアノ線での人体の空中固定なのだろう。
情報社会化のメタファーが、映画製作者たちに充分に理解されている。
でも、危険なに多いがぷんぷんするのも事実である。
アナーキーななかで美学に頼ると、ファッシズムに流れるのは歴史の通則である。

 この映画の見所は、スターガーの頭の中で繰り広げられる、虚の世界の描写である。
コンタクト」でも天国が描かれていたが、あれも難しかったに違いない。
想像の世界を映像化するのは、きわめて難しい。
スターガーの意識のなかとは、スターガーにとって天国であり地獄だから、意識が純粋培養された世界を描かざるを得ない。
少年の意識野では砂漠を使ったが、スターガーの場合は大人であり、もっと錯綜しているから、単純な世界で象徴させるわけにはいかない。
意識という虚の世界を、現実感をもたせて設定させる必要がある。


 天国や地獄の映像化は、どうしてもどこかで見たようなものになる。
天国なら、花が咲いて、長閑に陽がさして、ゆるく風が吹いて、となる。
人間が好感をもつ世界とは、どうしても自然の環境になじんでしまうのだろうか。
そして、地獄は人工的な世界になりがちである。
この映画でもそうした傾向はまぬがれていない。
しかも、人工的な地獄といっても、やはりどこかで見たような世界である。
人間の想像力は、なかなか飛躍できないものだ。
と感じると同時に、なかなか良くやっているとも感じる。

 この映画は、デザインの楽しさを、味あわせてもくれる。
このデザインには、フジのフィルムを使っているのがよく効いていた。
ただ、著作権はクリヤーしているのだろうけれど、馬の輪切りなど他からの引用が多いのが気になった。
サンプリングやクリッピングなど、他の音楽や映像を引用するのは、最近では常套手段となっている。
しかし、新たなイメージの創出こそ映像表現者の仕事だから、ポストモダン的な引用の多用は、やはり創造力の欠如といわれても仕方ない。

 天国や地獄をさまようスターガーの意識の世界は、ゴルチェがデザインを担当した「ロスト チュウドレン」を思い出させた。
この映画では、石岡瑛子が衣装のデザインをしていた。
ゴルチェよりはるかに洗練されており、力強く単純化されていた。
と同時に、日本人的な淡泊さなのだろうか、密実な画面を作るという意味では、ゴルチェに軍配が上がった。
そうは言っても、この映画の虚の世界の装飾を見る価値はあり、デザインの力を堪能させたくれた。
とくにキャサリンが虚の世界に没入して、スターガーの意識を支配する王の虜になってからは、衣装が壁まで連続した環境となり、圧巻のデザインだった。

 インド生まれの監督は、この映画がはじめての劇場作品らしく、映像表現力としては充分な力がある。
CM界出身らしく、映画的には話の筋がやや単純で、ご都合主義的な展開である。
しかも、先が判ってしまうのは、この手のサイコ・サスペンスとしては、いまいちといわざるを得ない。
物語の展開力といった映画監督としての力量は、もう一作見てみなければ判らない。
しかし、この映画で見るべきは、虚の世界の映像化だと考えて、洗練された映像デザインに星一つをつける。

2000年アメリカ映画

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