タクミシネマ           写真家の女たち

写真家の女たち        オードリー・ウェルズ監督

 年老いた写真家が、わかい女性にもてまくる話だが、この映画はそれだけではないようだ。
ハーパー(サラ・ポーリー)は中流階級よりうえの家庭でそだち、ハーヴァードに入学した。
今日は姉の結婚式で、盛大にパーティである。
しかし、彼女はうかない。
大人になれない彼女は、何をしたらいいかわからない。

 結婚パーティの写真を撮りにきたコニー(スティーブン・レイ)が、彼女をそそのかし、いっしょに住みはじめる。
コニーは老写真家であると同時に、女性を芸術に目覚めさせる才能をもっていた。
それまでも、若い女性と何人も同棲しながら、芸術家へとそだてた。
と書けばきこえはいいが、単なるスケベジジイと見ることもできる。
むしろ現実にはそのケースが多いだろう。
写真家と同棲しても、なにも得るものがなく、若い女性は青春を老人にくわれただけ、という事例のほうがはるかに想像がつく。
しかし、これは映画である。
この映画が訴えたかったのは、年老いた男性のファンタジーだけではなく、芸術的な感性の伝達でもあろう。

写真家の女たち [DVD]
 
前宣伝のビラから

 学校ができるまえ、教育は人から人へとなされた。
芸能の世界をみればわかるように、内弟子として住みこみの修業をした。
それは職人にあっても同じで、住みこみの弟子を内弟子とよび、通いの弟子とはあきらかに違う対応をしていた。
もちろん、住みこみの弟子のほうが、師匠への密着度ははるかに高いから、師匠からの影響はつよく受ける。

 優れた師匠であればあるほど、変わり者がおおかった。
そのため、内弟子たちは苦労したのだが、それでも優れた師匠につくことが、自分の才能をのばすことにつながった。
また独立したときも、より良きひいき筋を紹介される可能性がたかかった。

 学校ができ、技術は一対一で受け継がれるものではなく、一対大勢で学ぶものとなった。
ここで、技術の伝達方法がかわったのである。
それまでは個人的に、あるときは肉体の接触をとおして、教えられたものが、師匠と弟子の距離がはなれたのである。
師匠や親方とよばれた先達は、先生とよばれるようになり、全員に公平な態度が要求され始めた。
そのため、先生は個性的な人間ではなく、平均的な人物にならざるを得なかった。

 創造力が期待されながら、近代という社会がもとめていたのは、強烈な個性ではない。
ポップ・アートやモダン・アートを見ればわかるように、工業の大量生産と同じような、大量生産的な芸術がもとめられた。
だから、学校上がりの芸術家も充分に通用した。
むしろ、学校的なセンスつまり大量生産の感覚がないものは、芸術家ではなく芸人と呼ばれて通用しなくなりさえした。

 大量生産的な工業社会がおわり、知が価値をもつ情報社会になると、芸術や技術の伝達方法もかわるだろう。
好意的にみれば、これがこの映画の主題といえよう。
芸術や表現においては、技術だけではなく感性も、師弟のあいだで伝わる。
両者の関係には、全人的な接触があるはずで、その接触の仕方は各人各様だろう。

 前近代の芸能の世界でみられたように、肉体的な接触つまり少年愛が、師匠と弟子の交流でもあったろう。
相手にされた弟子のほうは、大迷惑だったかもしれないが、それでも人格が崩壊したとか、性的な虐待だといった話にはならなかった。
あるときは肉体的な接触が、より高密度な教育でもあった。
ちなみに内弟子は、十代の若者だったことを知っていて欲しい。


 肉体的な接触までも含んだ師弟関係は、近代では否定された。
たとえ大学でも、先生が生徒に手をだしたら、大スキャンダルである。
今や絶対に許されないだろう。
なによりも婚姻関係にない者の、性関係は否定されたのが近代である。
しかも、正しい性関係は、男女間のものでなければならなかった。
現在でこそゲイとして復活しているが、男性間の性関係は蛇蠍のごとく嫌われた。
それは、西洋近代をみればはっきりしている。
年齢秩序の崩壊から、少年愛が成人男性間の性愛へ移行しはじめたことも手伝って、男性間の肉体関係をソドミーとよんで軽蔑の対象になった。

 この映画は、同性間の話ではない。
年老いた男性と若い女性という、現在ではもっとも否定される関係である。
男女間では男性優位、年齢でいえば高齢者優位が、男性支配の現代社会にはある。
それをフェミニズムは、家父長制として批判した。
年老いた男性は、社会的な権威をあらわし裕福であるし、若い女性はその対極にある。
この両者のあいだでは、公平な関係など成立するわけがない。
フェミニズム的な視点からは、もっとも非難される関係だろう。
もちろん誰でもが、この映画のような関係を、もつべきだとは思わないが、個別的に許されるべき話だろう。
なにせこの映画は、女性監督が撮っているのだ。

 映画のなかで、ハーパーの母親(ジーン・スマート)が、中年女性の魅力を振りまいて、コニーを詰問するシーンがある。
この母親がじつにセクシーで、青臭いハーパーよりもずっとそそられるのだが、それは映画の話ではない。
その時、母親は若い女性にあって中年女性にないものは、老人にたいする憧れだという。
憧れが、親子ほど年の離れた若い女性を、老人に惹きつけるのだという。


 母親は老写真家にたいして、若い女性にヤニ下がっている老人とは考えていない。
美しい母親は、二人の関係を理解するがゆえに、つよい嫉妬と軽蔑をかくしきれない。
幾つになってもなくならない男性のスケベ心の話として、この映画は撮られてはいない。
女性監督にだけ許された、きわどい設定である。

 写真家を主人公にするからか、色がみずみずしいと感じた。
いつもとは色が違うなと思っていたら、フジのフィルムを使っていた。
そういえばこの映画の色は、ベルビアのような華やかな色だったから、あるいは映画用のベルビアがあるのかもしれない。
冒頭のやや青がかかった肌のシーンは、白をより強く感じさせたし、ソフトフォーカスのかかったシーンなどはベルビアが強い。
コダックの暖かく実質的な色調にたいして、フジのほうがシャープで幻想的かもしれない。
映画フィルムはコダックの独壇場だが、最近はフジが使われる例が多くなってきた。

 ハッセルで撮った写真が、35のベタ焼きででてくるのはおかしい。
反対に、ニコンのF2を使ったときに、正方形の紙焼きになっているのも変である。
しかしこの違いは、映画の内容にはまったく影響を与えなかった。
むしろベタは35のほうがそれらしいし、大4ツに伸ばすなら66だろう。
見過ごすべき問題というより、違うほうが納まりのいいときは、事実とは違ってもいいと思う。
ただ、コニーのカメラの構え方が、まるで素人だったのはいただけない。
きちんと演技指導をすべきである。コニーの元愛人のビリーを演じたジーナ・ガーションに貫禄がでてきた。
ライティングも上手かった。原題は、「Guinevere」

1999年のアメリカ映画 

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