タクミシネマ          ロスト・チルドレン

 ロスト チュウドレン  ジャン=ピエール・ジュネ監督  

 前作「デリカ テッセン」が好評だったので、同じ監督がそれに引き続く映画を撮った。
一作あたると、誰かがお金を出すらしく、お金がかかっている。

 ところで映画の内容だが、夢を見ないと、老化が速いという着想は面白いが、子供と夢という設定はすでにたくさん使われている。
怪物男、創造主、神の死、不具者の革命、地下の世界と、話題は豊富である。
しかし、この映画は最終的に何を言いたかったのか、よく判らなかった。

 フランスの映画にはいつも感じるが、豪華絢爛な映画美術のなかで、もってまわった独りよがりな文化を持て遊んでいる。
この映画も、美術は凝りに凝っている。
肉食主義者特有のどぎつい色彩と、ゴルチェがデザインしたオーバーなコスチュウームがあふれている。
そして、チーズやバターを食べている人たちが持つ、濃厚な脂っこい不潔さが画面からはみ出している。

 フランスは古い文化が隆盛を誇り、それらがそれぞれの様式性を確立している。
しかし、様々な文化はすでに盛りを過ぎ、様式性だけが枠組として残る終末の段階にきているようである。
だから、様々な文化の様式性を駆使して、それぞれをとっかえひっかえ組み合わせて、重厚なイメージを作っているのだが、文化そのものの持つ意味性が重すぎて、映画の主張が素直にでてこない。

ロスト・チルドレン [DVD]
 
劇場パンフレットから

 画面がややセットぽい感じがするが、このセットをスクリーンに再現するだけでも、ほんとうにお金がかかっている。
この世界が好きな人には、それだけでたまらないだろうが、それに価値をおかないとまったく評価の外になってしまう。

 記憶喪失になっている博士が、何体か人造人間を作った。しかし、皆どこかに失敗が残った。
最後に作った人造人間は、夢を見ることができないので、老化が速くなるという失敗。
それを避けるために、子供を誘拐して、子供の夢を擬体験しようとする。
一方、眼の見えない人々が差別されており、彼らが人造の単眼を入手することによって、単眼の人間が世界を支配しようともくろんでいる。
なぜだか判らないが、この単眼集団が子供を誘拐している。
そして、夢を見るために苦しんでいる人造人間に、子供を売り渡すのである。

 最後には、主人公である子供の心をもった怪力男とませた女の子によって、誘拐された子供たちは全員解放され、記憶の戻った博士が人造人間の基地を爆破して映画は終わる。
外国の映画では、子役たちが達者で、大人と同質の演技をする。
この映画でも、主人公になった女の子はかわいいだけでなく、すでに大人の美しさをもっており、年齢に不釣り合いな気味が悪い色気さえある。

 おそらくフランス人なら良く知っていることが、ふんだんになぞらえているのだろう。
そうした故事来歴や共通認識を踏み台にして、この映画を見ると楽しく感じるのだろう。
それは、まったく歌舞伎の世界である。
つまり自分たちの閉ざされた文化を、誰にでも判るように理解させる努力をしないで、自慰的に楽しむ姿勢からは、もはやなにも生まれない。
没落していく文化と言うのは、いつもこうなのだろう。

 フランスが文化の中心だった時代には、フランスの独自性によりかかっていても、そのままで世界的な普遍性があった。
しかしいまや、ヨーロッパ以外にも高度な文明をもっている。
他の地域がヨーロッパ文明をまねして、それぞれに高度な文明を体得したのだとしても、ヨーロッパの突出した優位性や普遍性はなくなった。

 ヨーロッパが唯一性を失ったので、たとえばチベットやアフリカの文化と、フランスの文化は同じ次元になった。
両者のあいだに、文化的な優劣はないにもかかわらず、フランスは自国の文化が優位していると思っているようだ。
フランスの文化は、完全に地方性の中に沈んでしまった。

 有名な蚤のサーカスや、ネズミのしっぽに磁石をつけて鍵を奪うシーンなど、部分的には面白い場面もある。
しかし、コンピューターによる合成が映画にとけ込んでおらず、不自然さが残る。
コンピューター合成は上手なのだが、上手さに足がすくわれ、コンピューター合成それを見せている。
コンピューター合成が、どこで使われたか判らなくなって、はじめて本物となる。
この映画ではコンピューター合成を見せたくてしかたない初心者のようである。

 凝った部分の集積が、優れた全体を構成できない。
つまり、立派な文化がディテールに凝らせはするのだが、それが足かせになって、主張がはっきりと打ちだせない。
それは、主張がないことを意味する。
もはやフランス人からは新しいものが、生まれないのではないか。
どんな文化も、繁栄を誇れば誇ったぶんだけ、没落期になるとその重さに耐えられなくなる。
文化の爛熟とは、そうしたものなのだろう。

 アメリカが工業社会から出発し、いま情報社会へと転換しつつあるとき、フランスは工業社会から情報社会へと転換することなく、時代の最先端から降りていく。
一つの地域が、長期に渡って歴史の最先端を走るのは、ほんとうに困難なことである。

1995年のフランス映画


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