タクミシネマ        セレブレーション

セレブレーション     トマス・ヴィンターベア監督

 父親(ヘレ・ドレリス)の60歳の誕生日に、子供や親戚が集まってお祝いを開いた。
ホテルとして営業している大きな田舎の家が、その舞台である。
父親と母親(ピアテ・ノイマン)、それに4人の子供たちは、30年前にこのホテルに引っ越してきた。
両親はホテルの経営者として今日まで生活し、子供たちは巣立っていった。
それだけなら、どこにでもある平和な風景である。
劇場パンフレットから

 30人近くも集まっただろうか。
宴会が始まって、長男のクリスチャン(ウルリク・トムセン)が祝いの言葉を述べる。
ところがそれは、自分と妹は父親から性的虐待を受けていた、という告白だった。
しかも、妹は父親からの近親相姦に、嫌気がさして2ヶ月前に自殺したと言う。
尋常ならざる話を聞いた参加者たちは驚き、宴会もそこそこに帰ろうとする。
しかし、料理長のキムはクリスチャンに味方し、クリスチャンと父親の対決を完結させようとする。
親戚たちを観客として残すために、彼等の車の鍵を奪って隠してしまう。
車がなくなった客たちは、親子対決の観客兼審判として残ることを、仕方なしに強制されてしまった。

 宴会が進むにつれ、順番に誰かが発言していく。
クリスチャンの告白に驚きながらも、母親はそれは作り話よねと言いながら、そうした話は内輪の時にして欲しかったと言う。
良識にあふれた人たちは、問題のある時は当事者同士で充分に話し合うのが良いという。
家庭内の問題の時は、家庭内で充分に話し合えと言うわけだ。
一見正しく見えるこの発言だが、家庭内での人間関係が上手くいっていないから、問題が起きたことに気づいていない。
家庭が問題を起こしたのだ。当事者の全員が反省していればともかく、犠牲者を生み出した家庭が独力で問題を解決できるはずがない。
1998年デンマーク映画。

 親と子という関係の中では、子供が小さなうちは圧倒的に親の力が強い。
子供は躾の名に隠れて、さまざまな強制を受ける。
それが社会常識とされていた時代には、多くの子供たちは黙ってそれに耐えた。
しかし、親の体験を子供に伝えることが有効性を失ってきた現代、親の恣意は次世代の教育に障害になってきた。
そのため、子供の生きる力をそのまま伸ばそうという、社会的な空気が生まれたのである。
それがこの映画の背景である。
これは「ファザーレス」と同じ主題である。
いずれも、成人した子供が親との関係を問い直している。

 一度できた親子関係は、実に強固である。
親子だけが2人だけで対面しているわけではない。
親は親の子供は子供の社会的な顔をもって生活しており、親子関係で見せるものと社会的なそれが別個のものではない。
家庭内の顔と社会的な顔は、本人の中で一体化しているので、家庭内の顔だけを直すわけにはいかないのだ。
とくに親はすでに長く生きてきたので、彼や彼女自身の生き方そのものにかかわってくる。
だから、そう簡単には関係が変わるわけがない。
小さな時にできた親子関係は、長い間にわたって固定し、親が本当に現役を退くまで上下関係は続く。
家族が対決するときは、この映画のように観客が必要なのだ。

 この父親のように、子供たちに近親相姦をしていたり、また虐待していたりすれば、問題は簡単である。
今や、いくら家庭内の問題とはいえ、外の人たちもそれに介入する。
しかし、家庭的にも良くできた人で、社会人としても品行方正だが、親子関係が破綻したとなると、その非難はすべて子供の方へ来る。
それでなくても、子供は親に従うべきだという農耕社会からの強い規制が子供に働くので、子供は自己の存在証明が確立できないことすら起きてしまう。
立派なご両親なのに、どうしてあんなお子さんができたのでしょうね、と言うわけだ。
暴力を振るう親など、親に問題がある場合のほうが解決は簡単だろう。
親は子供に愛情を持っていると思っているから、ことはやっかいなのである。

 「カジノ」でもそうだったが、非の打ち所のない素晴らしい夫で、妻の言うことは何でも聞き、妻をいたわる。
それでも荒れていく妻。
これでは妻の方が、悪く言われて当たり前である。
親子でも同じで、社会的にも立派と言われ、この映画でも父親はホテルの経営者で、立派な社会人である。
立派な親と子供の関係こそ、子供には何とも言いようのない重圧であり、桎梏なのである。
そうした構造が、少しづつだが理解され始めた。

 この映画でも、家族の絆を確認しようとしながら、そのそばからこぼれ落ちていってしまう様が、良く描かれていた。
近親相姦や暴力は論外としても、親もどう子供に対して良いか判らない。
男性だけが人間だった時代から、女性も人間だと言ったフェミニズムを経て、今や子供も人間なのだ。
子供は未成熟であるがゆえに親に監督権があるのではなく、親は子供という命を一時的に預かっているだけなのである。
子供は子供のままで自立した人間である。
時代の価値が混濁し、大変な時代になってきた。

 この映画は、手持ちのカメラで撮られたようで、画面が簡単に転換し、カメラが狭いところにも入っていっていた。
舞台は田舎のホテルだけ、出演者は全員でも40人くらいと、きわめて安価に制作されている。
それでも見るに耐えるのは、やはり主題を支える問題意識のせいだろう。
この監督はドグマ95に属し、純潔の誓いに署名しているのだそうだ。
それは、<すべてロケで撮る><セットを組んではいけない><音楽を使ってはいけない><人工照明の禁止><手持ちカメラ>などと言った十戒を守るのだそうだが、まったくナンセンスな話だ。
ドグマ95に属するラース・フォン・トリアー監督が作った「奇跡の海」は、最悪だったではないか。

 技術の選択肢は多い程良く、技術に溺れることによって、画面の緊張感が薄れるとしたら、ただ下手だというに過ぎない。
この映画で、照明不足により顔にモアレのようなものがかかって妙な効果がでていたが、あれは単に怪我の功名だろう。
SFXなどを使ったからと言って、良い映画ができるわけではないのは確かだが、技術を嫌うことなく技術に溺れることなく、きちんと主題を押さえて撮って欲しい。   

1998年のデンマーク映画 


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