タクミシネマ       ファザーレス 父なき時代

 ファザーレス        茂野良弥監督 

 この映画の出演者は全員素人で、村石雅也の生い立ちを遡るドキュメンタリーである。
村石雅也という若者を主人公にしているが、その母親と養父それに血縁の父親という、三人の大人たちの存在感がくっきりと印象に残った。
雅也少年(といっても22歳だが)が長野から上京し、無気力に過ごす毎日から映画は始まる。
登校拒否の彼は20歳で高校を卒業、東京の映画学校へはいる。
しかし、学校へも行かず、上野近辺でウリセンをしている。

前宣伝のビラから

 雅也少年の家庭は、彼が2歳の時に父親が家出し、その後母親は後添えの男性を迎えている。
この養父が素晴らしかった。部落に生まれ、ひどい差別をうけ、凄まじい人生を送ってきたのだろう。
それが日焼けした顔、がっちりとした体、ちらっと見える節くれ立った手、自然体の生き方など、随所に見える。
彼のような雰囲気は、俳優の演技では決してみることが出来ない。
あるものをそのまま受け入れながら、彼の心は一石であろう。
最後に雅也少年はこの父を誇りに思うといっているが、堅実に働いてきた人間であり、父親としてまさに誇りうる人物である。

 雅也少年の血縁の父親は、結婚直後から女遊びが絶えず、しかもサラ金に手を出し、借金取りが彼女のところへ殺到。
そのため、彼女は離婚。
しかし二人の子供を抱え、彼女は生活に追いまくられる。
子供への心配りどころか、自分のことすらおぼつかなかった。
無理もないと思う。
何の準備もなく結婚し、子供を産まされ、たちまち夫は消失では、彼女は生きる方法を身につけようがない。
男性は生活の手段を身につけるように、子供の頃から教育されてくるが、女性は結婚が目標だから、生活手段など誰も教えてはくれない。
女性は金を稼ぐ方法を知らない。

 若かった母親は、子供を置いて夜の街で飲み歩いたと言うが、無理もないことだ。
子供を産むのは生理だが、子供を育てるのは本能ではない。
何の準備もない女性に子供が育てられるわけがない。
雅也少年は叔母夫婦に預けられる。そこで中学まで育つ。
その後母親が結婚したので、母親と養父のところへ戻るが、母親はすでに新しい男性に奪われていた。
彼は自分に愛情を注いでくれる人がいないと感じ、高校でいじめに合うこともあって、登校拒否児となっていく。

 部落出身の父親は、凄まじい差別の中を自力で生きてきた人間で、行きたくない高校へ行くことはないと簡単である。
雅也少年の甘っちょろい心の動きなど、彼にはまったく理解の外だった。
彼は部落であることに何の偏見も持たない、雅也少年の母親に癒されたと思う。
38歳まで童貞だった彼は、母親との関係がとても嬉しかったに違いない。
やっと巡り会えた心の許せる人間である。
その女性に子供がいるなんて言うことは、彼にはどうでも良かったのだろう。
通常の意味では問題の多そうな母親だが、二人は本当に良い関係のようだ。

 必死に生きる大人たちから落ちこぼれた雅也少年は、自我が確立できない。
上京してもガール・フレンドは出来るが、上手く関係が結べない。
愛される愛情を求めて、彼は中高年男性に体を開く。
彼はバイセクシャルだと言っているが、これはバイセクシャルではない。
寂しさから愛されることを選んでいるに過ぎず、ゲイとして男性を愛しているのではない。
だから彼が選ぶ相手は、中高年とはるかに年上者になる。
バイセクシャルというのは、ストレートとゲイの混交で、同じような年齢や地位を持った人が対等の関係で作るものである。
雅也少年のこれは昔からある少年愛の延長で、ゲイではない。
寂しさから中年男性の相手をしていると、母親のほうが良く判っている。

 血縁の父親はちょっと好きにはなれないが、それにしても三人の大人たちは自分の感覚でしたたかに人生を生きており、見上げたものである。
それにたいして、雅也少年はかくあらねばならないと言う社会の規範にがんじがらめになっている。
それは学校教育のせいだろう。
決まり切った型に入れるのが、現代の教育だから、子供たちの自由な発想を許さない。
一つの型からはずれる部分を沢山持つ子供は、どうしても疎外感にさいなまれ、自分の存在を肯定できない。
おそらく先生たちも、子供同士を比較し、標準型に近い子供を良しとしているのだろう。
この映画からは、現代教育の恐ろしさをしみじみと感じさせた。
雅也少年は、鋳型にはめようとする学校教育の犠牲者である。 

 雅也少年は、この映画を作ることによって、自分史を振り返ったわけである。
22歳になってと言うかも知れないが、学校教育の桎梏から逃れるのは、22歳とは早いほうかもしれない。
小さな頃の教育は、実に強烈に個人を拘束する。
ここで自分史を見つめなかったら、彼は愛情に飢え続け、いまだに中高年男性の相手をしているだろう。
学校教育の桎梏を打ち破ってくれた母親や父親という大人たちに、彼が映画の最後で感謝するのは本心だろう。
しかし、彼も顔さえ知らない血縁の父親を本当の父親と言い、現在の父親を義父と言っていたが、常識とは怖ろしいものだ。
2歳の時に家を出たなら、彼は親でも何でもないだろう。
今の男性が父親役を演じてきたのにもかかわらず、かわいそうな義父である。
それと、彼にとってはマザーレスでもあったはずなのに、何故ファザーレスと言う題なのだろうか。
それにしても、この映画に出ることを承諾した親たちは、なんと立派な人たちだろう。

 良い映画だと思うので星一つをつけるが、これはビデオで撮影されたのだと思う。
通常劇場で公開されるのはフィルムであるはずで、ビデオ作品を映画としてお金を取って見せるのは如何なものだろう。
フィルムは撮影から照明から様々に条件があり、ビデオとは違うものだと思う。
たしかに表現される主題は同じだとしても、違う媒体の場合はそれと名乗るべきではないだろうか。
集音マイクが画面に入ったり、撮影者の影が画面に入ったりすることは、ご愛敬として目をつぶるにしても、ビデオで撮ったものを映画と言うことは、フィルムで撮っている映画監督たちに失礼だと思うが、どうだろうか。

1998年の日本映画


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