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アメリカの北東部を、奇妙な現象がおそう。 人間の方向感覚がなくなり、自傷して自殺に至る。 しかも次から次へと、感染していく。 人々は恐怖に陥り、大都会を逃げ出す。 街は大混乱に陥る。
原因は一切不明のまま、パニックは拡大していく。 教師のエリオット(マーク・ウォールバーグ)は、妻のアルマ(ズーイー・デシャネル)や友人の子供ジェス(アシュリン・サンチェス)と共に、町から避難を始める。 途中で何人もの死体を見たり、自らも死に遭遇する。 この映画は、パニックの原因をいっさい説明しない。 ただ、状況だけが危機一刻と迫ってくる。 恐ろしい状況が、彼らを襲うだけが延々と続く。 最初のうちは、原因を説明しないのに、不思議な感じがしつつも、恐ろしさに引き込まれていく。 しかし、主人公は死なないなと、途中で感じてしまったら、もう映画としての持続力がなくなる。 結局、さいごまで原因を説明しない。 人間が増えすぎたことに対する、自然からの警告であり予兆にすぎない、という学者の解説が最後にテレビで流れる。 アナウンサーは予兆だとしたら、他ででも起きなければおかしいというと、突然パリでも同じ現象が起きて、映画は終わる。 映画は物語を語り始め、事件がおきて展開し、なぜ事件がおきたかを、最後には解き明かす。 これがお約束ではないだろうか。 にもかかわらず、この映画は現象だけ描き、原因を説明しない。 これではストーリーを考えることは、必要なくなる。 大勢の人が死んでいる。 それは自然が、増えすぎた人間に与えた罰である。 増えすぎたネズミが海へと飛び込んでいくように、人間も淘汰をすべきだが、人間が自分でしないから、自然が行うのだという。 何というご都合主義の筋書きだろうか。 南・北米では人口の80%が死んだ例もあるし、ヨーロッパだってペストで半分が死んだ歴史もある。 神の罰という考えは、思考の停止にすぎず、怠惰以外の何物でもない。 監督たちは映画のトリックを、必死で考える。 奇想天外な仕掛けも、何とか無理なく自然に感じさせようと、努力するから生まれるのだ。 この映画のように、現象の説明をせずにすめば、こんなに簡単なことはない。 翌日になったら、すべて通常の生活に戻っていた。 <そんな!>が。この映画への感想である。 前作の「ヴィレッジ」で、次のように書いた。 <全体設定を隠しておいて、最後にばらすという手法は、サスペンスの常套でもあるが、やはり無謀な設定では無理である。危険の多い現代社会を、前近代にたって批判する構造自体が、後ろ向きであるから、よほど状況設定を上手くしないと説得力に欠ける> インド的な前近代から、傲慢なアメリカ人を批判したつもりだろうが、状況設定と原因の説明に失敗しているので、説得力がない。 もっときっちりと、トリックを考えるべきだ。 1時間半の映画だが、短い時間ですらもたないのだ。 やはり主題がしっかりと、監督の中に醸成されていないと、良い映画はできない。 しかも、演出にも失敗しているようで、俳優たちの演技が絶叫型になっている。 もっと自然な演技ができるはずである。 原題は「The Happening 」 2008年アメリカ映画 (2008.08.19) |
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