タクミシネマ        硫黄島からの手紙

 硫黄島からの手紙
  クリント・イーストウッド監督

 前作「父親たちの星条旗」と同時に撮られた。
2時間半を越える長編のこの映画は、明らかに独立した別の作品である。
舞台こそ硫黄島と共通だが、主題は少し違う。
この映画だけで、充分に見るべき作品に仕上がっている。
前作以上の強烈な反戦映画である。

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 アメリカ国内でも、今では反戦気分が強くなってきたようだが、この映画を企画した当時は、
イラク戦争の趨勢もはっきりしていなかったはずで、イラク戦争に反対するのは難しかっただろう。
ミリオンダラー ベイビィー」での血縁の家族否定と重ねあわせてみると、
強い反戦意識が物語るのは、この監督が共和党支持から、
徹底した個人主義に宗旨替えをしたことだと知る。

 主人公は日本陸軍の栗林中将(渡辺謙)だろう。
それにもう1人兵士の西郷(二宮和也)を加えても良い。
しかも、日本軍の内部が舞台とあって、台詞はすべて日本語である。
脚本は英語だったというが、アメリカ人監督が日本人を主人公にして、
台詞が日本語だけの映画を撮るのも驚きなら、
徹底した日本軍内部だけの映画を撮るとは、まったく想像もつかなかった。
アメリカ国内の公開では、字幕でやるのだろうか。


 前作の主題が、アンチ・ヒーローだったとすれば、
この映画はむしろヒーローを描いて、反戦を訴えている。
1つの歴史的な事実を、事実に忠実なまま、相対立した両者から見るのは、なかなか難しいことだ。
アメリカ人ならパール・ハーバーを思い出すだろうし、日本人なら原爆を持ちだすだろう。
にもかかわらず、この監督は敵軍の内部に冷静な視線を向け、
日本人も強かな戦い方をしたことを、アメリカ人に知らせている。

 我々日本人は、事実としての太平洋戦争に負けたのだが、
この映画で歴史を振り返る視線においても、ふたたび敗れたように思う。
我々がアメリカ軍内部を、英語で映画化できるだろうか。
しかも、アメリカ軍を蔑視することなく、アメリカの戦いを客観化できるかといえば、
戦争賛美の声が台頭しつつある現在、ほとんど否定的な返事しかできない。
この映画を見終わった時、太平洋戦争をめぐって、2度目の敗戦を喫した気分だった。

 1944年6月、敗色濃い日本軍は、硫黄島を本土防衛の橋頭堡とすべく、栗林中将を送り込んだ。
アメリカ留学経験のあった彼は、ドライではあったが、優れた戦略家だった。
彼はそれまでの水際作戦を捨て、士官たちの反対を押し切って、自分で独自に立案した。

 彼の作戦は、島中に地下壕を作ることだった。
翌年の2月にアメリカ軍が来襲するまで、硫黄島の全島を地下壕でつなぎ、島自体を要塞としたかった。
しかし、時間切れで、アメリカ軍の攻撃を受ける。
もちろん完璧に負けるのだが、本土への侵攻を少しでも延ばすことには成功した。
映画の大半は、戦闘の開始までに費やされ、戦闘シーンはむしろ短かったといっても良い。

 この映画が反戦映画であることは明らかだが、映画の主題は、いったい何だったのだろうか。
戦地では誰でも家族や恋人を思いだすのだから、
家族思いの兵士など当たり前であり、家族が主題になっていたとは思えない。
親米派の軍人を登場させ、日本人にも優れた軍人がいたことを、アメリカに紹介することだったのだろうか。
それとも親米派の軍人が、アメリカ軍と戦ったことだろうか。
主題の不鮮明なこの映画は、戦争そのものに迫っているように見える。


 多くの表現者は、自分の得意な分野で勝負する。
その結果、日本人監督の描いたものは、日本人からは支持され、
アメリカ人監督が描いたものは、アメリカ人に支持されることになる。
これは当然のように思えるが、人間を対象とした表現としては不充分である。
この監督は、あえて自分の知らない日本軍を描くことによって、
自国のアメリカ軍に感情移入することを防ぎ、戦争表現の一般化を狙ったのだろうか。

 前作「父親たちの星条旗」が、アメリカ人によるアメリカ人のための映画だとすれば、
この映画は戦争表現を一般化したので、アメリカ人による人間のための映画となった。
日本人がこの映画を見て感動したとすれば、
日本人からナショナリズムを脱色させることに成功したといえるだろう。
この老監督は、究極の相対化とでもいうべき、恐ろしい表現方法を編み出してしまった。
こうした映画は、我が国で作ることはできない。脱帽である。

 しかし、映画の出来のほうは、必ずしも上出来とは言えない。
渡辺謙のキャスティングは良いとしても、
西郷を演じた二宮和也は、年齢が若すぎてミス・キャストだろう。
そして、何よりも問題なのは、日本語をつかったために、役者への演技付けが平板になっていることだ。
ミリオンダラー ベイビィー」でのモーガン・フリーマンの屈折した心情表現もなかったし、
ミスティック リバー」でのティム・ロビンズの深みある表情もなかった。

 母国語ならできる深い思考も、外国語ではなかなか難しい。
ましてや外国語で思想を伝えるのは、もっと難しい。
それを知っているこの監督は、俳優たちに複雑な表現を求めなかったのだろうが、
その結果、登場人物がみな平板になってしまっていた。
台詞の棒読みこそなかったが、人間の複雑さは感じることができなかった。
フレアーをださない逆光撮影や、暗部のつぶれてない夜間など、
カメラ・ワークが素晴らしかっただけに、人間描写に物足りなさが残った。

 冒頭のもたつきと、中盤の中だるみが気になった。
30分は切り詰めても良いように思う。
しかし、老人になると保守的になって、新たな試みに手を出さなくなるものだが、
この監督は76歳になった今も果敢に挑戦している。
単線的で平板な構成だが、見るべき映画ではある。
老監督のガッツに星を一つ献上する。  
  2006年アメリカ映画    (2006.12.20)

 この映画が何を訴えているのか、見た直後はよく判らなかった。
時間がたつにつれ、次のような主題だと思い始めた。
 
 アメリカの当初の予定では、5日間で占領できると考えていたらしい。
それが30日以上もかかった。
どんな人間が相手だったのか、それを描こうとしたのだろう。
今でこそ、人間はみな平等と思われているが、
それでも先進国の白人から見れば、日本人は猿に近い人間である。
猿に近い人間だったから、日本人はすべての戦場でアメリカ軍に負けたが、
硫黄島でだけあれだけ戦ったのは、どうも信じられないはずである。

 この監督は、資料を調べながら、<敵だった日本人も同じ人間だった>と感じたに違いない。
そこで、この映画を撮ったのだろう。
前作はアメリカ人に、作られたヒーローの無益さを訴えたとすれば、
この映画はやはりアメリカ人に対して、敵は猿ではなく人間だった、と訴えたかったのだろう。
そう訴えることによって、アメリカ人の不思議感を払拭し、納得させることができる。
猿に手こずるのはあり得ないが、人間相手なら仕方ないと言うことだろうか。
 (2007.01.16)

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