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ミスティック リバー   クリント・イーストウッド監督

 ジミー(ショーン・ペン)、デイブ(ティム・ロビンス)、ショーン(ケビン・ベーコン)の3人は、少年期をボストンで一緒に過ごした幼なじみだった。
彼らには決して忘れられない苦い記憶があった。
デイヴが誘拐され、4日に渡って性的虐待を受けたのである。
その後、3人はボストンに住んでいるが、別々の道を歩いて成人した。

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 前科のあるジミーは、乾物屋をやって堅気を装っているが、実は裏で地元のチンピラたちを仕切っていた。
その彼には、最愛の娘がいた。
先妻との間にできた子で、先妻が死んだこともあって、本当に可愛がっていた。

 娘が何者かによって殺された。
巡りめぐってデイヴが、犯人と疑われる。
今は刑事となったショーンが、相棒のホワイティー(ローレンス・フィッシュバーン)とともに、事件の捜査にあたる。
かつての幼なじみが、奇妙な縁でめぐりあう。

 話の筋は、特別に珍しいものではない。
警察の捜査が生ぬるいので、自分たちで真犯人をあげようとしたら、実はそれが間違いだった。
それだけの話しである。

 この映画が主張するのは、2つある。
1つは、少年への性的虐待を告発すること。
もう1つは、私刑の肯定である。
いずれも最近のアメリカ映画の中心的な主題であり、この監督もまさにアメリカ的問題関心に生きている。

 ジミーの娘が殺された夜、デイヴは血だらけで帰ってきた。
しかも、血が付いていることに、彼は訳の分からない奇妙な説明をした。
あれ以来、デイヴの挙動は、確かに平静ではなくなった。
彼が犯人でないことは、この手の映画では常識である。
しかし、彼が犯人であるかもしれないという錯覚を、観客に与えることが展開上不可欠である。
その筋書きにしたがって、映画は進む。 

 デイヴの妻セレステ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)は、デイヴが犯人ではないかと、不安で仕方ない。
ジミーにデイヴの様子をうち明ける。
単純なジミーはたちまち、デイヴを疑ってしまう。
しかもこの映画は、捜査をしている刑事が、幼なじみである。
3人の錯綜した心理が描かれるが、性的虐待によって彼らの間は引き裂かれているのだから、むしろ少年時代の話は脇役である。

 デイヴには少年期のトラウマがあり、少年を性的に虐待する大人を許せなかった。
少年愛の場面を目撃してしまったので、彼は少年愛の男を殴り殺してしまったのである。
過去がフラッシュバックしての、無意識的な行動だったから、殺したのか否か、自分でも定かではない。
しかも、死体も出ない。
少年愛の男性といっても、殺人が許されるはずはない。
それを知っている彼は、不安で仕方ない。


 現代アメリカ映画での最大の主題、それは子供だとは何度もいってきた。
我が国の識者やマスコミは、子供の犯罪を批判する。
しかし、多くのアメリカ映画と同様に、この映画もまったく子供を弾劾しない。
子供の問題を、大人の問題として捉えている。

 子供に対する大人の対応が、子供の心に傷を付け、その成長を歪めているという主張である。
これは最近のアメリカ映画の主流で、子供を自立させるためには、大人こそきちんとした対応が迫られれているという。

 この映画は、青春期の切なく甘い思い出を描いたものではない。
映画の宣伝がいうような「スタンド バイ ミー」とは、何の関係もない。
青春など、この映画にはまったく無縁である。
ただ子供に対する大人の態度、それに対する告発といっても良い。

 子供という他者を批判するより、自己を見つめろというのが、アメリカ映画の主張である。
かつてなら、少年を性的な対象とすることは、まっとうで立派な男性の正しい行いだった。
プラトンの「饗宴」では、成人男性は、少年愛を競っている。
少年愛は農耕社会のどこにもある。
しかし、現代アメリカでは、少年愛は犯罪である。

 かつては年齢の多寡が文化を伝えたので、少年愛は歓迎された。
肉体労働が支配した社会では、文字の価値が低かったので、高齢男性が肉体をもって、年少男性へと文化を伝えた。
しかし、現代は肉体よりも頭脳の時代であり、年齢の上下による文化の優劣はない。
横並びの関係こそ、情報社会の人間関係である。
だから、ゲイが台頭してきたのだ。
情報社会という上下の年齢秩序がない社会では、高齢男性が年少の男性を愛することは、横並びの人間関係に逆らうことだ。

 少年愛を愛好する男性は、未だにいる。ゲイよりもずっと根深いだろう。
白人男性は、アジアの少年を買っている。
しかし、時代はそれを許さない。
この監督は、少年愛の禁止という時代の感覚を、3人の幼なじみに託して描いている。
映画のメッセージは伝わるが、時代への強烈なメッセージというには、衝撃力が弱い。
つまり、時代の空気を描くだけで、本質的な思考に届かないのである。


 もう一つの主題である私刑の肯定にしても、実にあっさりとしている。
セヴン」が、おずおずと越えた一線を、何のためらいもなく越えている。
「セヴン」は1995年の作品だから、すでに10年近くの年月が経っている。
私刑の肯定はより強まったとも言えるが、やはり法制度に対する根元的挑戦である以上、もっと逡巡して欲しい。
許されない私刑を肯定するのだから、少年愛以上に緻密な展開が必要である。

 ジミーの殺された娘への捜索は、執拗を極めるが、デイヴが殺されたのには、まったく無関心である。
強姦されたデイヴの存在が、ジミーとショーン中で、一種のわだかまりとなっていたとしても、ジミーの殺人をショーンが許すことにはならないだろう。
少なくともショーンは、刑事なのだから、殺人を自分の心の癒しより優先してはいけない。
にもかかわらず、ジミーの妻アナベス(ローラ・リニー)には、デイヴ殺人を肯定させるのだ。

 アナベスはジミーを街の実力者と持ち上げ、娘を守るためなら、父親のジミーは何でもすると、末娘にいう。
そして、デイヴ殺人を知りながら、彼女は自首せよというのでもなければ、反省を求めるのでもない。
間違った殺人であっても、娘を守るためという動機なら、あたかも肯定されるという展開である。

 ショーンがジミーにあっても、問いつめることもない。
むしろ、親しげな対応を見せる。
私刑の肯定には、もっと逡巡がなければならない。
この監督は、おそらく共和党支持だろうと思う。
私刑の肯定は、アメリカの草の根<民主主義>が、古くから持っているものだとしても、共和党支持者にのみ共感されるのでは理解しがたい。

 映画の作りとしては、そこそこにできている。
最初の導入部でこそ、人物紹介があまりにも月並みで、期待薄かとも思ったが、進むにつれて描写が徐々に細かくなっていく。
定型的なカットのつなぎで、破綻なく見せている。
手慣れた作りである。
しかし、デイヴの無実は最初から判っているし、筋的なおもしろさは期待しないほうが良い。

 カメラワークには凝っていた。
光線のあて方に、注意を払ったのはよく判る。
全体照明から片側照明へと転じていく様子は、登場人物たちの心理を反映しているのだろう。
真っ暗になったバックに、デイヴの顔が不気味に浮き上がる。
デイヴの顔色が、上手く演出されている。
しかし、ライティングは技巧に過ぎる感じもさせ、自然さを欠いていたようにも思う。

 デイブに扮したティム・ロビンスの演技が素晴らしかった。
2003年アメリカ映画 (2004.1.16)

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